一隅を照らす
三人の物語
Rita実践ラボ
サロン・治療院の経営に携わる三人が、どこで立ち止まり、何を受け取って、どう向きを変えたか。瀬戸口遥、宇佐美駿、川村聡。三人とも、まだ途中です。
途中のまま書いたのは、途中の人に読んでほしかったからです。
目次
プロローグ
第一巻
鏡の中の微笑み
瀬戸口遥の物語
第二巻
昨日の自分
宇佐美駿の物語
第三巻
見えない根
川村聡の物語
エピローグ
奥付
プロローグ
百年後の図書館
駒嵐迅
もし、百年後に図書館が残っていたら。
私はときどき、そんなことを考える。棚のいちばん下の、誰も手を伸ばさないあたりに、背の褪せた一冊が立っている。表紙には、聞いたこともない会社の名前と、聞いたこともない三人の名前。手に取るのは、たまたま雨宿りに入った誰かだ。
その人はページを開いて、少し眉を寄せるだろう。これは経営の本なのか、それとも人の話なのか。答えは出ないまま、たぶん最後まで読んでしまう。
私がこの本を編もうと思ったのは、そういう一人のためだ。
私の仕事は、売ることだった。
正確に言えば、売れるようにすることだった。言葉の置き方を変える。順番を変える。間を置く。それだけで、迷っていた人の肩がふっと下がる。首が縦に動く。契約書にペンが走る。私はその一連の流れを、十年以上、手の内に持っていた。
二十代の終わり、私は外資系のホテルで働いていた。見える場所は磨かれていて、見えない場所は荒れていた。荒れている事実を知っているのは私たちだけで、知っていることを言えば立場を失った。私は言った。立場を失った。
次に移った旅行会社では、自分の判断で七百万円の損失を出した。誰かのせいにできる余地はなかった。数字は、言い訳を一つも受け取ってくれない。
その後に入った健康食品の会社で、私はトップの営業マンになった。月に何百万円も売った。表彰され、名前を呼ばれ、拍手を受けた。拍手の音を聞きながら、私はいつも同じことを考えていた。
——いま私が売ったものは、あの人の人生に、本当に要るものだったのか。
答えを出さないまま、私は次の月も売った。売れる人間が売ることをやめるのは、思っているよりずっと難しい。
二〇一九年五月二十日。新大阪の、改札を出てすぐの喫茶店だった。
向かいに座った男は、作業着に近い服を着ていた。名刺を出されたが、そこには会社名と、番地だけが書かれていた。地図の案内には、たどり着けない住所だった。
彼は、自分の商品のことをほとんど話さなかった。代わりに、土の話をした。病気になった果樹の話をした。薬で押さえ込むのではなく、土の中の微生物の釣り合いを整えたら、枯れると言われた木が二年かけて戻ってきた、という話を。
「殺す発想より、整える発想のほうが、長い目で見たら強いんです」
私はその場で、自分が持っていた技術の使い道を見失った。売る力はある。けれど、何を売るかを決める基準を、私は一度も自分で作ったことがなかった。
彼の名前は久遠健一。のちに私が働くことになる会社の、人である。
その年の秋、私は比叡山に登った。
ドライブウェイを上がっていくと、建物の密度が下がって、空が広くなる。杉がまっすぐに伸びている。空気に、張りつめた透明さがある。静けさの質が違う場所では、自分の中の雑音がよく聞こえる。
根本中堂の脇に、古い石碑が立っていた。
一隅を照らす。
千二百年前、この山を開いた人の言葉だという。世界を照らせ、とは書いていない。自分がいま立っている、その一隅を照らせ、と書いてある。
私はそこで、ようやく息を吐いた。
売る力を持ったまま、売ることを疑い始めた男が、どこへ行けばいいのか。答えはずいぶん小さかった。自分の手が届く範囲を、ちゃんと照らすこと。それだけだった。
この本に出てくる三人は、特別な人ではない。
一人は、頑張りすぎて身体を壊した、小さなサロンの経営者だ。一人は、人と比べることをやめられなかった、無口なトレーナーだ。一人は、七千万円の借金を抱えて布団から出られなくなった、元バンドマンの営業マンだ。
三人とも、私と出会ったときには、うまくいっていなかった。
三人とも、いまは自分の言葉を持っている。
その間に何があったのかを、私は順番に見ていた。見ていたから、書ける。だから書くことにした。
百年後の棚の下で、雨宿りの誰かがこのページを開いたとき。その人が、自分の一隅のことを少しだけ思い出してくれたら、それでいい。
では、はじめよう。
一人めは、鏡の前で動けなくなった女性の話だ。
第一章
帯を締める音
「いい子」という名の守り方
いちばん古い記憶は、鏡の中にある。
三代続いた呉服屋の、店の奥。背の高い鏡が一枚、壁に立てかけるように置かれていた。成人式、結婚式、七五三。年に何度か、女の人がその前に立つ。母か祖母か、店の者が後ろに回って、帯を締める。
締まる瞬間に、音がする。布と布が擦れて、きゅっと息をのむような音。
その音の、ほんの半拍あと。
鏡の中の人の顔が、変わる。
目の縁がやわらぐ。口の端が、自分でも気づかないうちに上がる。さっきまで少し不安そうだった人が、急に、誰かに自慢できる人になる。遥はその変化を、店の隅に座って見ていた。何度見ても、面白かった。
人は、ちゃんと扱われると、顔が変わる。
言葉にはできなかったけれど、遥はたしかにそれを知っていた。
町は小さかった。歩けば必ず知った顔に会う。
「遥ちゃん、かわいいね」
「ほんまにいい子やね」
「勉強もできるんやって?」
声をかけられるたび、遥は笑って頭を下げた。顔立ちは整っていたし、勉強も運動もできた。友達は男女どちらにも多かった。そういう子どもだった。
そのうち、遥の中に一つの考えが生まれた。
——私が頑張れば、みんなが喜ぶ。
重荷ではなかった。無理でもなかった。呼吸をするように、自然だった。頑張ることと、喜ばれることが、同じ動作の裏と表だった。
小学六年生の春。
朝、靴箱を開けると、上履きがなかった。
数日後、ゴミ箱の中から出てきた。泥がついていた。遥は洗って、何も言わなかった。
さらに数日後。上履きは、八つ裂きになっていた。
布は、はさみで切るとああいう断面になる。遥は、それをしばらく見ていた。
教室の空気が変わった。誰も何も言わなかった。言わないのに、視線だけが動いた。誰かが遥を見て、すぐに目をそらす。それが一日に何度も起きた。
遥は何も言えなかった。言えば、もっと目立つ。
次は、更衣室だった。体操着が、細かく切り刻まれていた。
さすがに学校が動いた。前代未聞の事件として調べられ、二人の女子生徒の名前が出た。
職員室で、先生が聞いた。どうしてこんなことをしたの、と。
二人は泣きながら答えた。
「遥と遊びたかったのに、遊んでくれなかった」
「遥が羨ましかった」
謝罪があった。遥は、少し笑って言った。
「気にしてません」
先生は何度も「もう大丈夫だから」と言った。遥は頷いた。
その日から、遥の中に名前のない恐怖が住んだ。
目立つと、危ない。
誰に教わったわけでもない結論だった。けれど子どもは、空気で学ぶ。学んだことは、骨になる。
遥は、笑うことをやめなかった。やめたのは、無邪気に笑うことだった。代わりに覚えたのは、相手が安心する顔の作り方だった。角度と、目の細め方と、声の高さ。それは技術だった。十二歳の子どもが、自分を守るために独りで身につけた技術だった。
前髪が、少しずつ長くなっていった。誰も気づかないくらいの速度で、顔を隠す位置まで伸びた。
人はこの年頃に、自分がどういう人間なのかを決めてしまう。心理学はそれを自己概念と呼ぶ。人生の設計図、と言ってもいい。そして設計図のいちばん最初の一行は、だいたいこう書かれる。
——私は、私をどう扱うか。
遥の設計図には、こう書き込まれた。
私は、役に立つ人でいないといけない。
ありのままの自分では、足りない。
呉服屋の娘は、帯を締める側にいた。けれど締められていたのは、着物の帯ではなかった。
役割という名の帯が、心を締めていた。
締まった瞬間、顔が変わる。あの鏡の前の人たちと同じように。
ただ、違っていたのは一つだけだ。
鏡の中で微笑んでいたのは、本当の遥ではなかった。
この生き方が、いつか自分の身体を通して、静かな問いとして返ってくることを。
十二歳の遥は、まだ知らない。
第二章
二十四時間の孤独
「大丈夫」という言葉の裏側
ウェディングプランナーになったのは、あの鏡のせいだ。
花があって、ドレスがあって、祝福の拍手がある。泣いて、笑って、手を握る。一生に一度の日に、人の顔が変わる瞬間が、一日の中に何度もある。遥はその現場に立って、子どもの頃に見ていたものを自分の手でつくっているのだと思った。誇らしかった。
ただ、会場の裏側には、別の世界があった。
契約。打ち合わせ。提案。クロージング。クレーム対応。そして、次の契約。
「今月あと二件、取らないと」
上司の声は、強くなかった。強くないから、重かった。
遥は誰よりも早く出社して、誰よりも遅く帰った。提案書を作り、客の話を聞き、小さな希望を一つずつ拾った。手を抜くという選択は、はじめから持っていなかった。
人生の節目は、やり直せない。
その一行が、遥を動かしていた。
結婚した。子どもが生まれた。
産休は、一ヶ月ほどで切り上げた。
「もう少し休んだら?」
「身体、大丈夫?」
聞かれるたびに、遥は笑って答えた。
「大丈夫です」
夕方に帰る。夕飯を作る。子どもを寝かしつける。夫の食事を用意する。洗い物をする。家が静かになる。
そこから、遥の二つめの一日が始まる。
抱っこ紐を取り出す。まだ首の座らない赤ん坊を胸に抱えて、玄関を出る。向かう先は、職場だった。
夜のオフィスは、照明が半分だけ落ちていた。廊下の奥で、エアコンが低い音を立てている。パソコンの電源を入れると、画面の光だけが机を照らした。
カチ。カチ。カチ。
キーボードの音が、フロア全体に響いた。胸元では、小さな寝息がしていた。
ふと時計を見ると、深夜二時だった。
遥の手が、一瞬止まった。
それから、すぐに戻った。
——頑張れば、できる。
そう自分に言い聞かせて、遥はまた画面に向かった。
人は、役を演じ続けることができる。
母。妻。仕事人。プロフェッショナル。どれも、遥は演じられた。むしろ、上手かった。
ただ、二十四時間ぜんぶが役になってしまうと、一つだけ、どこにも残らないものが出てくる。
自分の人生を生きる時間である。
遥の周りには、人がいた。仕事があった。家族がいた。守るものが、両手に抱えきれないほどあった。
それなのに、とても孤独な場所にいた。
「大丈夫です」は、相手を安心させる言葉だ。同時に、自分の限界に蓋をする言葉でもある。蓋をしている限り、中で何が起きているかは誰にも見えない。本人にも見えない。
ずっと、息が浅かった。
その歪みは、派手な音を立てなかった。ゆっくりと、静かに、でも確実に、遥の内側を削っていった。
そして遥は、その答えを知ることになる。
ある日。鏡の前で。
第三章
身体からのSOS
自分を愛する「許可証」を手に
その朝、遥は鏡の前で動けなくなった。
顔。腕。首。足。
全身が、赤く腫れ上がっていた。
「……え?」
声が、ちゃんと出なかった。
蕁麻疹だった。もともとあったアトピーも、今までに見たことがないほど悪化していた。皮膚が焼けるように熱くて、かゆみは、耐えるという言葉が意味をなさない強さだった。
夜は眠れなかった。布団の中で、何度も目が覚めた。
それでも、仕事は休まなかった。
客の前では、磨いてきた穏やかな声で話した。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「お二人が一番大切にされていることは、何ですか?」
何も変わっていなかった。変わっていないように、見せていた。
鏡の中の自分は、肌が荒れ、目の下に濃い影を落としていた。
——頑張れば、きっと大丈夫。
遥は、まだそう思っていた。
その頃、夫が独立して美容室を持った。
今度は家族と一緒に働こう、と遥は決めた。美容の免許を取り、エステを学び、美容室の一角で施術を始めた。
客の肌がきれいになって、喜ばれる。ウェディングと同じだった。誰かが輝く瞬間に、自分が立ち会っている。
ただ、身体は戻らなかった。疲れが溜まるたびに、炎症が強くなった。
ある日、穏やかな雰囲気の女性客が来た。
施術のあと、お茶を出したとき。その人は遥の手をじっと見て、言った。
「遥さん、手……かゆそうですね」
遥は少し笑った。
「ちょっと、アトピーで」
女性は、静かに言った。
「身体は、食べたものでできていますよ」
遥の心に最初に浮かんだのは、反発だった。
——そんなこと、分かってる。
——でも、そんな余裕ないんです。
実際、余裕はなかった。自分の食事は、子どもの残り物だった。立ったまま食べるパンだった。コンビニのおにぎりだった。
食べているというより、空腹を止めていた。
その数日後。夫が、一本のボトルを持って帰ってきた。
発酵エキス、と書いてあった。
「これ、飲んでみ」
「これ、どうしたん?」
夫は、少し照れくさそうに言った。
「売るためちゃうで」
そして、言った。
「遥の身体のためや」
ボトルを手に取ると、重かった。
ただの液体の重さではなかった。
キャップを開けて、少し口に含んだ。発酵の、独特な匂いがした。しつこい甘さはなかった。派手な味でもなかった。
なぜか、涙が出た。
「あれ……」
自分でも分からなかった。胸の奥で、何かがほどけていた。
その夜、遥は何もせずに座っていた。子どもの寝息だけが、小さく聞こえていた。
もう一度、グラスに注いだ。今度は、ゆっくり飲んだ。
同じはずの味が、どこか違って感じられた。
身体の不調は、偶然ではないことがある。
無理が通らなくなったとき、身体は勝手に止まる。心はいくらでも嘘をつけるけれど、身体だけは嘘をつかない。
あれは、強制終了だった。
もう止まりなさい、と言われていた。
そしてあの一本は、遥にとって薬ではなかった。
自分をケアしてもいい、という許可証だった。
遥は、はじめて真正面から認めた。
誰かのためには、いくらでも頑張れた。
自分のためだけは、ずっと後回しにしてきた。
自分を大切にすることは、わがままではない。贅沢でもない。長く生きていくための、土台だ。
——自分を後回しにする生き方を、少しだけ変えてみよう。
小さな決意だった。
この決意が、やがて自分の人生のエネルギーの使い方そのものを変えていくことを、遥はまだ知らない。
第四章
分度と推譲
握りしめる手を放し、循環を呼び込む
雨の夜だった。
レジを締めて、受付の椅子に座る。外では、看板の光が濡れたアスファルトにぼんやり落ちていた。店の中には、静けさだけが残っていた。
売上は、悪くない。
それなのに、口座の残高を見ると不安になった。
——もし来月、予約が落ちたら。
その想像が来ると、指先が固くなった。
受けてみたい勉強会があった。ページを開いて、料金を見て、閉じる。それを何度も繰り返していた。心の中で繰り返される言葉は、いつも同じだった。
今はまだ、早い。
帰り際、電話が鳴った。発酵エキスを扱っているメーカーの、駒嵐という人だった。客の紹介で知り合ってから、ときどき話すようになっていた。
遥は、勉強会のことを話した。受けたい。でも、今はまだ早い気がする。
駒嵐は、すぐには答えなかった。少し間を置いてから、静かに尋ねた。
「水って、どうやったら流れると思いますか」
遥は、言葉に詰まった。
「水は、抱え込んでいたら流れません」
駒嵐は続けた。
「出すから、流れる。流れるから、また入ってくるんです」
遥の胸の奥に、その言葉が落ちていった。お金の話をされた気がしなかった。命の使い方そのものを問われた気がした。
二宮尊徳という人が、二百年ほど前に言ったことがある。
分度。
自分の身の丈を知ること。いまの自分に何が必要で、何が過剰か。どこまでが健やかな器なのかを見極めること。
そして、推譲。
ただ余りを差し出すことではない。未来のため、人のため、次の流れのために、自分のエネルギーを託すこと。
託す対象は、お金だけではない。時間。学び。言葉。まなざし。命の使い方そのもの。
遥がずっとしていたのは、その逆だった。
握りしめていた。
帰宅して、遥はもう一度そのページを開いた。
申し込みボタンの上で、指が止まった。
心臓が少し速くなった。そこにあったのは、怖さだけではなかった。
押した。
それから、ノートを開いた。毎月の安心ライン。固定費。学びに回す予算。数字を一つずつ書き出していった。
書き終えたとき、遥は小さく息を吐いた。
握りしめることが、守ることではない。
自分を整えることは、守りたい人を守ることだ。
その夜、遥の経営と生き方は、静かに動き始めていた。
第五章
土壌と身体
美容の出発点は、鏡の前ではなく大地にある
午後の光が、白いカーテンをやわらかく透かしていた。
最後の客を見送って、遥はカルテを閉じた。精油の残り香が、まだ少しだけ漂っている。
その日、遥はいつもより長くカルテを見つめていた。
同じ言葉が、何度も出てくるのだ。
なんとなく、疲れが抜けない。
一人や二人ではなかった。年齢も職業も違う人たちが、同じ言い方をする。
「最近、体質そのものが弱ってる人、増えてる気がするな」
声に出してみると、違和感の形が少しはっきりした。
その週の勉強会の休憩時間。隣の席にいた駒嵐に、遥はその話をした。
駒嵐は、ゆっくり頷いた。
「その違和感、大事にしたほうがいいです」
そして言った。
「美容の問題に見えて、実は食べ物の問題かもしれません」
少し間を置いて、もう一つ付け足した。
「土の問題かもしれません」
土。
遥の中で、その言葉は宙に浮いた。美容の仕事を何年もしてきて、一度も通ったことのない道だった。
後日、遥は工場を訪ねた。
駒嵐が間に入り、発酵エキスを作っている人に会わせてくれるという。名前は久遠健一。工場の社長だった。
久遠は、飾り気のない人だった。挨拶もそっけないくらいに短かった。
話し始めると、言葉はゆっくりだった。
「人は、口から入れたものでできる」
そこまでは、遥にも分かる話だった。
「でも、その口に入るものは、全部土から始まってるんや」
久遠は、淡々と続けた。
「当たり前の話やけどな。みんな、途中からしか見なくなる」
遥は、黙っていた。
自分がどこから見ていたかを、数えていた。
肌から見ていた。せいぜい、化粧品から。たまに、食事から。
土からは、一度も見ていなかった。
帰り道、スーパーに寄った。
野菜売り場に立って、遥はトマトを手に取った。ほうれん草。にんじん。きのこ。
いつもと同じ棚だった。いつもと同じ値札だった。
ただ、浮かんでくる問いが違った。
——この野菜は、どんな土で育ったんやろう。
——どんな人が、作ったんやろう。
答えは、分からなかった。
それでも、かごに入れるものが変わった。
「私、今まで”何を足すか”ばっかり見てました」
遥はそのとき、自分の仕事の底が一段深くなったのを感じた。
足し算ではなかった。
そもそも、何でできているのか。
その問いの前に、美容も身体も並んでいた。
第六章
栄養密度
「食べている」と「満ちている」の違い
数日後の午後。
午前の客が帰ったあとの、静かな時間だった。窓際から差し込むやわらかな光が、カウンターに置いた紙の上に落ちていた。
遥は、一枚の資料をじっと見ていた。
同じ野菜の、昔と今の比較だった。ほうれん草。にんじん。トマト。ブロッコリー。
「これ……本当なんですか?」
遥は、顔を上げた。
「同じほうれん草なのに、昔と今で、栄養がこんなに違うんですか?」
駒嵐は、頷いた。
「見た目が同じでも、中身まで同じとは限らないんです」
ページをめくる音がした。
「大事なのは、量だけじゃない。その中に、何がどれだけ入っているか」
遥は、黙って資料を見直した。
自分が客に出してきた言葉を、順番に思い出していた。
——バランスよく食べましょう。
——ちゃんと三食とりましょう。
間違ってはいない。けれど、足りていなかった。
遥自身の食事も、そうだった。立ったまま食べるパン。コンビニのおにぎり。量としては、食べていた。
食べていたのに、満ちていなかった。
「”食べ物の濃さ”みたいなことは、全然見てなかったです」
ぽつりと出た言葉だった。
営業後、遥はスタッフルームで一人、同じ資料を読み返した。
自分の不調の説明が、入れ替わっていくのが分かった。
食べていないから、ではない。
満ちていないから、かもしれない。
その違いは、言葉にすると小さい。けれど、打つ手がまるで変わる。
量を増やすのではなく、質を選ぶ。
遥は、自分が客に渡す言葉を書き直し始めた。
第七章
旬と養生
便利さの代わりに、私たちが手放してきたもの
冬の終わりのスーパーに、トマトときゅうりといちごが当たり前のように並んでいた。
遥は、その棚の前で立ち止まった。
——どうして今の食卓は、こんなにも季節が見えにくくなったんやろう。
寒い季節だった。それなのに、かごに入るものから季節が消えていた。
勉強会の休憩時間。遥はノートを開いたまま、少し考え込んでいた。
そして、聞いた。
「今って、どうしてこんなに一年中、何でもあるんですか?」
駒嵐は、しばらく遥のノートを見てから答えた。
「そこには、戦後の農業と流通の大きな変化があります」
遥は頷いた。頷きながら、頭の中では別のことを考えていた。
便利ではある。
でも、どこか不自然でもある。
その両方を、同時に持っていていいのだと、はじめて思った。
その夜。
遥は台所に立った。
——今の季節の身体に、何が合うやろう。
考えてから、根菜を多めに入れた汁物を作った。
できあがった鍋を覗くと、見た目はとても地味だった。彩りもない。写真に撮って誰かに見せたい料理では、まったくなかった。
一口食べた。
温かさが、喉から胸に下りていった。
——こういうことかもしれない。
旬というのは、その時期に自然な状態で実るということだ。無理に時期をずらさなくても、そこにある。養生というのは、季節に合わせて身体を調えていくということだ。
遥の中で、「自分を大切にする」の意味が変わった。
何かを足すことではない。
いまの自分に合うものを、ちゃんと選ぶこと。
美容は、外側を整える仕事だと思っていた。
その日から、生き方そのものを整える仕事に見えはじめた。
第八章
殺すのではなく、整える
農薬と土壌の調和
久遠健一が登壇するセミナーに、遥は出た。
久遠は、淡々と話した。農業のこと。発酵のこと。微生物のこと。身体のこと。そして、整えるということ。
質疑応答の時間になって、遥は手を挙げた。
「農薬って、やっぱり体に悪いんやろうか」
会場が、少し静かになった。
久遠は、マイクを持ち直した。
「その質問はな、みんな早く白黒つけたなる質問や」
会場に、小さな笑いが起きた。
久遠は、自分の話をした。
もとは上場企業に勤めていた。そこを辞めて、岡山で農業に関わるようになった。あるとき、病気になった果樹に出会った。
薬で抑える方法があった。久遠は、それを選ばなかった。
微生物と有機物を入れて、土のバランスを整えた。何ヶ月もかかった。
薬では治らないと言われた木が、回復した。
そのあと、すべてが崩れるような出来事もあった、と久遠は言った。何が起きたのかは話さなかった。話さないまま、いまは発酵の仕事をしている、と続けた。
「役割があることと、何も問題がないことは、別の話や」
久遠はそう言った。
農薬にも役割がある。使わなければ収穫できない場面がある。それは事実だ。ただ、長く使えば土の釣り合いが崩れることもある。それも事実だ。
「”使った・使わん”だけやなくて、全体のバランスやね」
遥はメモを取る手を止めた。
「怖がることより、理解して選ぶことや」
久遠の言葉は、淡々としていた。
「極端に走ると、たいてい本質から離れる」
そして、こう言った。
「殺す発想より、整える発想の方が、長い目で見たら強い」
会場が、静かだった。
「命に対して、丁寧になることや。農業も、身体も、一緒や」
言葉に、不思議な重みがあった。
知識で話しているのではないのだと、遥は思った。生きてきた時間と体験で話している人の声は、こういう響きをする。
正解は、一つじゃない。
遥の表情が、少しずつ変わっていった。
セミナーのあと、スーパーに寄った。かごに、葉物をひとつ入れた。
全部を完璧に変えるつもりは、もうなかった。
何も知らずに選ぶのと、理解して選ぶのは、違う。
食べ物は、身体の材料だ。それだけではない。
生き方の表現でもある。
第九章
理想の重さ
「正しさ」を振りかざすより、命に丁寧になる
やわらかな日差しが差し込む午後だった。営業が一段落して、店の空気が緩んでいた。
遥は一人でテーブルを拭いていた。
夕方、扉のベルが鳴った。
久遠健一が、奥様と一緒に立っていた。
遥は席に案内して、お茶を出した。奥様は、穏やかな空気をまとった人だった。何も言わずに、店の中をゆっくり見ていた。
遥は、ずっと聞きたかったことを聞いた。
有機栽培のほうがいいのなら、なぜ世の中はそうならないのか。
久遠は、湯呑みを置いた。
「その質問な。前よりずっと、ええ質問になってるわ」
久遠は、ゆっくり説明した。
手間がかかる。時間もかかる。天候にも左右される。土を整えるには、年単位で向き合わなあかん。すぐに結果が出るとは限らへん。
そして、言った。
「尊いことと、簡単に広がることは別や」
遥は、黙って聞いていた。
自分でもずいぶん調べていた。土のこと。旬のこと。栄養密度のこと。農薬や化学肥料のこと。
調べるほど、どちらが正しいのか分からなくなっていた。
久遠は、その迷いに答えをくれなかった。
代わりに、こう言った。
「何が一番正しいかを決めつけることやない」
「全部を正しくするんやない。でも、丁寧にはできる」
「理解して、選び続けること」
その夜、遥はスーパーに寄った。
仕事帰りの人がゆっくり歩いている、静かな時間だった。
野菜売り場で、遥は一つ手に取った。
袋の裏に、作った農家の名前が書いてあった。
知らない人の名前だった。遥はそれを、少しの間、読んでいた。
自分の身体のために、自分で選ぶ。
当たり前のことが、はじめて自分の手の中にあった。
全部を正しくすることはできない。
でも、丁寧にはできる。
遥は、ほんの少しだけ、他人のために頑張る人から、自分の命に丁寧になる人に変わっていた。
第十章
聖域の特定
「比較の海」から抜け出す3C分析
雨上がりの夕方だった。
遥は予約表を眺めていた。白い隙間が、ところどころに残っている。
「ちゃんとやってるはずなんやけどな……」
小さくつぶやいた。
キャンペーンは打っていた。発信も続けていた。やれることは、やっていた。
それなのに、埋まらない。
その夜、施術の終わった常連の女性が、帰り支度をしながら言った。親切心だった。
「遥ちゃん、知ってる? 駅前に、大手のお店できるらしいよ」
「そうですよね」
遥は笑って頷いた。
客が帰ったあと、遥は数字を確認した。それから、インスタの画面を開いた。
近隣のサロンの広告が、次々と流れてきた。
初回九十分、二千九百八十円。
今だけ、半額。
今月限定、五名様。
遥は、画面をスクロールする自分の指を見ていた。
——うちも、もう少し下げようか。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が嫌な感じにざわついた。
安さという土俵に、引き寄せられている。
「何をどう頑張ればいいのかが、前より分からなくなってきた」
数日後、駒嵐がサロンを訪ねてきた。
遥が話し終えると、駒嵐は机の上のメモ用紙を一枚取った。
ペンで、三つの円を書いた。少しずつ重なるように。
「Customer。Competitor。Company」
顧客。競合。自社。
「今、誰と戦っていますか?」
遥は、答えられなかった。
正直に言えば、全員と戦っていた。駅前の大手と。近所の安い店と。インスタで輝いている誰かと。そして、去年の自分と。
駒嵐は、三つの円の重なりを指でなぞった。
「よく、この三つが重なる場所を探せと言われます」
そして、首を振った。
「でも、三つがただ重なる場所を探すことじゃないんです」
駒嵐は、円の一つに印をつけた。
「競合が真似したくない、あるいは真似できない。でも、お客様は強く求めていて、しかも、自分たちはそこに本気を注げる」
三つの条件を、順番に言った。
「その場所を見つけることです」
遥は、メモを見ていた。
「経営には、他人が土足で踏み込めない場所が必要なんです」
駒嵐は、そこに一言だけ書いた。
「それが、聖域です」
駒嵐が帰ったあと、遥はハーブティーを淹れた。
カップの温もりを手のひらで感じながら、考えた。
真似されない場所。
技術だろうか。設備だろうか。価格だろうか。
どれも違った。どれも、お金と時間があれば誰でも用意できる。
では、何が残るのか。
遥の手が、止まった。
残るのは、自分が通ってきた道だった。
頑張りすぎて、心も身体も置いてきぼりになっていた女性。
それは、少し前の自分だった。
深夜二時に赤ん坊を抱えてキーボードを打っていた女。鏡の前で動けなくなった女。「大丈夫です」を百回言った女。
その人の気持ちは、調べて分かるものではない。
通った人にしか、分からない。
遥は、ノートに書いた。
私は、効率を追う場所じゃない。
声は、ずっと静かだった。
でも、ずっと強かった。
私の過去そのものが、誰かを救う価値になるかもしれない。
ここから、遥のサロンは方向を持ち始めた。
第十一章
厚利少売の覚悟
「安売り」という名の裏切りを卒業する
施術のあと、客が温かいハーブティーを両手で包みながら言った。
「ここ、安すぎると思う」
遥は笑って、頭を下げた。
「ありがとうございます」
本当は、少し困っていた。褒め言葉の受け取り方が、よく分からなかった。
その夜、サロンの奥で一人、帳簿を見ていた。
材料費。家賃。広告費。人件費。雑費。決済手数料。
数字を順番に追っていくと、喉の奥が詰まるような感じがした。
客数は悪くない。それなのに、利益が釣り合わない。
理由は、はっきりしていた。
キャンペーンで単価を下げた。オプションはサービスにした。足りないと言われるのが怖くて、いつも少し多めに渡していた。
遥は、ペンを置いた。
胸の奥が、ざわついていた。
その夜、駒嵐が来店した。
遥が帳簿を見せると、駒嵐は少し黙ってから言った。
「あなた、安売りするたびに、実は大切なお客様を裏切ってることに気づいてますか」
遥は、顔を上げた。
裏切る、という言葉が、刺さった。
「安いほうが、お客様は助かると思って」
「その安心って、今日だけの施術の話じゃないですよね」
駒嵐は、静かだった。
「利益が出ないっていうのは、何が起きるか」
遥は、答えを探した。
「……続かなくなります」
「そうです」
駒嵐は頷いた。
「お客様が三年後も通える場所を守るのは、売上じゃなくて利益です」
「厚利少売っていうのは、高く売るってことやないんです」
駒嵐は、濁さなかった。
「一人のお客様に、深く価値を届ける覚悟を持って、その価値が続いていくための利益を、ちゃんと受け取るってことです」
遥の胸の奥が、熱くなった。
受け取る覚悟。
今まで持っていなかったものの名前が、やっと分かった。
この金額をいただく以上、絶対に結果で返す。
その覚悟を持てるなら、価格は申し訳なさではなくなる。
一ヶ月後。
メニュー表から、割引の文言が消えた。
初回半額も、今月限定も、なくなった。
遥は、客が減ることを覚悟していた。
減らなかった。
ある客が、受付で言った。
「安いからじゃなくて、ここやから来てるんです」
遥は、言葉が出なかった。
その年の年末。
遥は、スタッフに決算賞与を渡した。
封筒を受け取ったスタッフが、何度も頭を下げた。
遥は、そのとき思った。
利益は、欲ではない。
守りたいものを守るための、力だ。
第十二章
分度の財務
規律こそが、未来を創る「自由」の種になる
夜、サロンのデスクでノートパソコンを開いた。
売上は上がっていた。客数も悪くない。単価も、少しずつ整ってきた。
それなのに、利益が手元に残らない。
「なんで……?」
遥は視線を落として、ゆっくり息を吐いた。
胸がざわついて、重かった。
理由は、自分が一番よく知っていた。
自分の給料を削って、帳尻を合わせていた。
遥の中には、ずっと古い記憶があった。
呉服屋を営んでいた父が、経営に苦しんでいた姿だ。
はっきりした事件があったわけではない。ただ、お金に追われる空気は、家の温度を変える。子どもはそれを、言葉より先に覚える。
いつかまた、崩れるかもしれない。
その恐怖が、遥を動かしていた。だから経費を見るのが怖かった。削るという言葉が、ケチみたいで嫌だった。我慢みたいで嫌だった。
そして「必要」という言葉で、全部を通していた。
駒嵐は、少し間を置いてから言った。
「分度ってな、瀬戸口さんを縛るためのもんやないです」
遥は、顔を上げた。
「底の抜けた桶に、水を注ぎ続けてる状態なんです。注ぐ量を増やしても、底を直さんかったら、永遠に溜まらへん」
「経費を見るときの問いは、一つだけでいいです」
駒嵐は、ペンで机を軽く叩いた。
「これは、お客様の未来に本当に直結してるやろうか」
そして、言った。
「分度は、我慢やなくて、未来を守る設計や」
一ヶ月後。
遥は、色分けした収支管理表を作った。
固定費。変動費。未来投資。そして、なんとなく使っていたもの。
四つめの色が、思っていたより多かった。
無駄な広告費を少し削った。安いからと大量に買っていた備品を見直した。
スタッフの教育予算は、そのまま残した。
お客様に出すハーブティーは、逆に質を上げた。
数週間後。
遥は、管理表を眺めながら小さく笑った。
「不思議……前より心の方が自由かもしれへん」
決める基準ができると、迷いが減る。迷いが減ると、恐怖が薄れる。
削るか、削らないか、ではなかった。
何を守るか、だった。
月末、少しだけ余剰金が残った。
それは、次の挑戦の種火だった。
第十三章
動機の理解
「欠乏」から「貢献」へ、行動の根っこを育てる
雨の夜だった。
営業を終えて、遥は受付の椅子に座っていた。
街灯の明かりが、濡れた道路に細く伸びている。昼間とは、静けさの質が違った。
勉強会で、動機というテーマを学んだ日だった。
帰り際、駒嵐に言われた言葉が残っていた。
「瀬戸口さん、モデルケースになるかもしれませんね」
嬉しいはずの言葉だった。
それなのに、遥の中に別の問いが立った。
——私は、何のために生きてるんやろう。
見えるものが増えると、問いは浅くならない。深くなる。
遥は、自分の来た道を思い返した。
呉服屋の看板娘。期待に応える子。頑張れば喜ばれる子。そして、全身が腫れ上がった朝。
ずっと、役に立ちたかった。
その「役に立ちたい」は、どこから来ていたのか。
帰宅して、子どもを寝かしつけた。家が静かになった。
遥は机に向かって、白いノートを開いた。
ペンを握って、少しの間、何も書けなかった。
それから、一行だけ書いた。
私は、何のために生きているのか。
書いた瞬間、答えのほうが先に出てきた。
昔の「役に立ちたい」は、埋まらない欠乏から来ていた。
役に立たない自分には価値がない。だから役に立つ。そういう仕組みだった。
いまは、違う。
遥は、続けて書いた。
私は、過去の自分のような人を減らしたい。
もう少し早く、気づくきっかけを渡したい。
ペンが止まらなかった。
救いたいんだ。
私は、届けたいからやる。
書き終えて、遥はノートを閉じた。
これまで学んできたものが、一本の線になっていた。
身体のこと。食のこと。土のこと。聖域のこと。利益のこと。分度のこと。
ばらばらだったはずの全部が、「届けたいから」という一本の軸に集まっていた。
胸の奥に、形を持ったものがあった。
じんわりと、温かかった。
ここから先、遥の物語は「自分を整える」だけでは終わらない。
誰かの人生に、その気づきを渡していく側へ。
第十四章
一分の真心と感謝の連鎖
あなたの体験は、誰かの「救い」に変わる
夜。子どもを寝かせて、遥はソファに座った。
スマートフォンを手に取る。
少し前までは、この動作に重さがあった。
投稿しなきゃ。続けなきゃ。役に立つことを書かなきゃ。
いまは、違う。
誰かに届けばいい。
それだけだった。
翌朝、遥は一つ投稿した。
頑張りすぎている人ほど、自分の身体の声を後回しにしてしまう。
そういう内容だった。
写真は、発酵ドリンクのボトルを一本だけ。派手でも、きれいでもない、朝の光の中の写真だった。
そのまま、仕事に出た。
夕方、通知が来た。
リアンの取扱店からのメッセージだった。
遥の投稿を見たというお客様が、その店に来て、商品の購入を決めたという。
言葉は、丁寧だった。感謝と、少しの申し訳なさが混じっていた。
遥は、スマートフォンを持つ手を止めた。
胸の奥が、じんわり温かくなった。
少し考えてから、返信した。
「ぜひ、そのお客様を大切に扱ってくださいね」
もう一行、書いた。
「そのお客様に届いたことが、私にとって一番うれしいことです」
その夜、遥はノートを開いた。
自分の言葉が、誰かのその先の可能性につながっている。
私の体験は、誰かの安心に変えられる。
書いていて、涙は出なかった。代わりに、静かに笑っていた。
私は、一人じゃない。
胸の中に、小さな火が灯っていた。
もっと伝えたい、と思った。
一分の真心。
飾らず、評価を求めず、ただ相手のほうを向いた、ほんの一分の心。
それが、連鎖する。
遥の言葉が、取扱店に届く。取扱店の人が、お客様を大切に扱う。そのお客様が、自分を大切に扱い始める。
波紋は、立てた本人には見えない。
それでも、確かに広がっている。
遥の物語はここから、サロンの中だけでは終わらない次の章へと進み始めていた。
最終章
聖域の完成
私は、私を大切に扱う
営業が終わった夜。
遥は、夫の美容室の中にある自分のサロンスペースで、一人、椅子に座っていた。
店の中には、静かな時間だけが残っていた。
始まりは、夫の一言だった。
「ここ使ったらええやん」
美容室の一角を借りて始めた、小さなスペースだった。ベッドが一台と、カーテンと、壁。
それが、少しずつ整った。客が増えた。言葉が変わった。数字が変わった。
そして、遥自身が変わった。
その夜、夕食のあと。
食卓で、遥は切り出した。
「ちょっと相談があるねん」
自分の店を、自分の場所で持ちたい。
言ったあと、少し怖かった。
夫は、箸を置いて、短く答えた。
「遥の好きなようにしたらええやん」
そして、言った。
「ここは俺が守る」
遥の中で、何かがほどけた。
あの夜、ボトルを渡されたときと同じ場所が、ほどけた。
駒嵐の言葉が、重なった。
「自分を大切に扱える人は、人を本当に大切にできる人です」
はじめて聞いたときは、意味が半分しか分からなかった。
いまは、分かる。
逆ではない。順番があるのだ。
自分を後回しにする人は、いつか必ず、誰かを大切にする力を失う。
翌朝。
朝の光が、サロンの窓から差し込んでいた。
遥は、まだ誰もいない空間に立ち止まった。
壁。ベッド。カーテン。
何年か前は、ただの一角だった。
胸が、少し熱くなった。
遥は、声に出さずに言った。
私は、私を大切に扱う。
ここは、他人が土足で踏み込めない場所だ。
真似されない場所だ。
遥が通ってきた道の上にしか、立たない場所だ。
聖域は、完成した。
そしてそれは、終わりではなかった。
鏡の前で微笑んでいたあの少女は、もう、作り笑いをしていない。
第一章
比べられなくても、比べてしまう
崩れないことを選んだ少年
隣の家に、一つ年上の男の子が住んでいた。
勉強ができた。要領がよかった。学級委員をやって、リレーのアンカーを走って、子ども会では大人に褒められた。どこにいても、自然と目立つ子だった。
宇佐美駿は、その子が嫌いではなかった。
むしろ、すごいと思っていた。
だから、比べてしまった。
親が比べたわけではない。誰かにお前はだめだと言われたわけでもない。家は穏やかだった。押しつけも放任もなかった。ゲームもスマホも習い事も、必要なぶんは与えられた。一人っ子で、特に不自由はなかった。
それでも、子どもは空気で分かる。
あの子はすごい。自分は、そうではない。
誰も言っていないその一行を、駿は毎日どこかで聞いていた。
駿は、群れることに気持ちよさを感じないたちだった。
人に頼るより、自分でやる。任せるより、自分で決める。
それは意志ではなかった。癖だった。
一人で没頭している時間のほうが、落ち着いた。
そして、答えのようなものを一つ見つけた。
運動である。
野球を始めた。ピッチャーも任された。走るのも嫌いではなかった。
身体を動かしている時間だけは、自分の輪郭がはっきりした。
あるとき、近所の人に言われた。
「隣のお兄ちゃんもすごいけど、駿くんも運動すごいね」
駿は、頭を下げた。
少し救われた気がした。
同時に、苦かった。
——また、比べられている。
褒め言葉の中に、必ず誰かが並んでいる。並べられないところへ行きたいのに、行き方が分からなかった。
駿は、感情を大きく出さなかった。
悔しいことがあっても、その場では飲み込んだ。家に帰ってから、一人で何度も思い返した。思い返して、自分の中で結論を出した。
一人で処理する力が育った。
同時に、人に見せない癖も育った。
二つは、同じ根から伸びていた。
中学、高校と、その傾向は濃くなっていった。
高校生になる頃には、生き方の形が決まっていた。
目立たなくていい。
派手に勝たなくていい。
でも、崩れたくない。
駿は、崩れないことを選んだ。
それは防御だった。防御は、うまくやれば傷を減らす。減らすかわりに、深く頼ることも、見つけてもらうことも、難しくなる。
高校の卒業式の日、駿は体育館の天井を見上げながら、ぼんやり考えていた。
——このままで、本当にいいのかな。
答えは、出なかった。
その静かな違和感が、のちの宇佐美駿を動かしていくことになる。
第二章
身体は、努力を裏切らない
数字の世界と、カレー屋の看板
大学に入って、駿は筋トレに深く入り込んだ。
高校までの野球の延長線上のはずだった。それが、途中から別のものになった。
トレーニングルームが、特別な場所になったのだ。
気を使わなくていい。空気を読まなくていい。ただ、身体に向き合えばいい。
何キロ上がるか。何回できるか。昨日より今日、どれだけ前に進めたか。
曖昧さが、一つもなかった。
少なくとも、身体は自分を裏切らなかった。
深掘りが始まった。
メニューを組む。フォームを確認する。動画で効かせ方を研究する。栄養の本を読む。海外の情報を探す。サプリメントの成分表を比べる。
大学の友人が飲み会に行っている時間に、駿は家で動画を見て、成分表を並べていた。
調べたことは、全部自分の身体で試した。
食事を変える。サプリを変える。種目を変える。回復の取り方を変える。
数字が動いた。見た目が変わった。
それが、面白かった。
食事への関心は、はじめは完全に筋肉のためだった。
たんぱく質を何グラム。脂質はどこまで落とすか。糖質はいつ入れるか。
すべてを数字で見ていた。
食事とは、身体を作るための材料だった。それ以上の意味は、なかった。
ある日、大学の近くで、一軒のカレー屋の看板が目に入った。
グルテンフリー。
仕込みから完成まで二週間。
駿は足を止めた。
——二週間は、長すぎる。
大げさではないか、と疑いながら、店に入った。
食べて、驚いた。
おいしい。それはいいとして、問題はそこではなかった。
重くない。
もたれない。
食べたあと、身体が変に疲れない。
駿は、スプーンを持つ手を止めて、自分の胃のあたりを意識した。
こんなことがあるのか、と思った。
気になって、また行った。
そのうち、週に二回通うようになった。
オーナーと話すようになった。
なぜグルテンフリーなのか。なぜ無添加なのか。なぜ、そこまで手間をかけるのか。
答えは、流行りだからではなかった。身体に入るものを本気で考えた結果だと、オーナーは言った。
聞いているうちに、もう一つ分かった。そのオーナーも、もともと身体づくりやトレーニングに関心のある人だった。
駿は、少し親近感を覚えた。
そして、はじめて思った。
食には、背景がある。
誰が作っているのか。どんな思いで。どんな材料と、どんな手間で。
食べ物は、数字だけではなかった。
大学時代、駿はアパレルショップでアルバイトをしていた。
最初は生活費のためだった。
働いてみて、意外なことがあった。
自分がいいと思った服を説明すると、客が言うのだ。
「じゃあ、それにします」
押し売りではなかった。伝わって、納得して、選んでもらえた。
その感覚が、残った。
大学を卒業して、駿はシステムエンジニアになった。
理由は、平均年収が高そうだったからだ。安定していそうだったからだ。
すぐに違和感が来た。
立派な仕事だと思った。それは本当にそう思った。
ただ、自分の中に何も積み上がっていく感じがしなかった。
一年もしないうちに、辞めた。
フリーターになった。
トレーニングはやめなかった。むしろ、深くなった。
動画を見た。栄養学を調べた。オーガニックスーパーに通い、やがてその店で働き始めた。オンラインサロンにも入った。
サプリメントを片っ端から試した。
二十代前半で、サプリメントに三百万円以上使った。
誰にも言わなかった。言う相手もいなかった。
ある日、ふと思った。
——これを、仕事にできないかな。
トレーニング。栄養。身体。食。健康。
一人で掘ってきたものが、誰かの役に立つかもしれない。
その瞬間、駿の中で何かが線になった。
ばらばらに積み上げてきたものが、はじめて一本につながった気がした。
パーソナルトレーナーになることを決めた。
この選択も、最後は一人で決めた。
ただ、今度は違った。
自分で選び取った実感のある道だった。
第三章
正しいことを言っているのに
「先生みたいには、できないんです」
トレーナーとして働き始めた駿には、確信があった。
身体は正直だ。
トレーニングすれば筋肉はつく。食事を整えれば体脂肪は落ちる。睡眠を取れば回復する。
自分の身体で、何度も証明してきた。
だから、客にも同じように伝えた。
「糖質は控えた方がいいです」
「週三回は身体を動かしましょう」
「ちゃんとやれば変わります」
間違っていなかった。
それなのに、続かなかった。
最初は頑張る。途中で来なくなる。三ヶ月。半年。
同じことが、何度も起きた。
ある日、一人の女性客が言った。
「先生みたいには、できないんです」
駿は、言葉に詰まった。
反論できることは、いくつもあった。できないのではなく、やっていないだけだ。やれば変わる。自分がそうだったように。
口を開かなかった。
開けなかった、というほうが近い。
正しさと、相手の現実の間にある距離を、駿はそのときはじめて見た。
数日後、先輩トレーナーがぽつりと言った。
人は「変われ」と言われると逃げる。「一緒にやろう」と言われると、少し頑張る。
それだけだった。
駿は、その二つを何度も頭の中で並べた。
自分が言っていたのは、全部前者だった。
カウンセリングの勉強を始めた。
決めつけない。相手の話を聞く。相手が自分で選べるように関わる。
もともと言い切るのが得意ではない駿には、不思議なくらい自然に合った。
変化が起きた。
客が、自分で決め始めたのだ。
「今週は、夜食をやめてみます」
「今日は体重より、体調を整えたいです」
駿が渡していないものを、客が自分で持ってきた。
その時期、あるエステサロンのオーナーと出会った。
オーガニックに詳しく、身体のことにも関心が深い人だった。駿のトレーニングや栄養の話を真剣に聞いてくれた。そして、言葉に押しつけがなかった。
駿は、共鳴した。
一つだけ、気になるものがあった。
店に置いてある、一本の酵素ドリンクである。
トレーナーの目で見ると、どうしても引っかかった。カロリーはある。栄養の説明は、曖昧だ。
この人が扱うなら、理由があるはずだ。
駿は、聞いた。
「これって、どうして扱っているんですか?」
オーナーは、嫌な顔をしなかった。
ファスティングのこと。現代人は足すことばかり考えているということ。本当は「出す」という視点が必要だということ。
そして、言った。
「身体ってね、休ませることも必要なんです」
駿は、黙った。
足すことしか、考えてこなかった。
たんぱく質。栄養。筋肉。重量。回数。
全部、足す方向だった。
休ませる、という発想が、自分の中に一度もなかった。
第四章
裏の表示を見る
本物かどうかは、細かく聞かれたときに出る
入っていたオンラインサロンで、セミナーが開かれた。
登壇者は、健康や身体づくりの分野で影響力のある人だった。駿は以前から発信を見ていて、この人はちゃんと見ている人だという印象を持っていた。
その人が、自分の体験を話した。
比叡山で行われたファスティングの合宿に参加したこと。そこで使った酵素ドリンクが、自分のイメージを覆したこと。
「正直、僕も最初は半信半疑でした」
そう前置きしてから、続けた。
「でも、全然違ったんです。空腹感も違う。身体の軽さも違う」
煽らなかった。
そして、こう言った。
「大量生産できるものではありません。だから限定販売なんです」
駿の中で、何かが噛み合った。
栄養のこと。腸内環境のこと。内臓を休ませること。負担を減らす視点。
別々に持っていた知識が、一本につながっていく感覚があった。
講座の中で案内された酵素ドリンクを、駿は購入した。
安くはなかった。迷った。
それでも、自分の知識と照らし合わせて納得できたから買った。
買ってから、本当の話が始まった。
駿は、市販の酵素ドリンクを片っ端から比較し始めた。
原材料。発酵原料の種類。産地。農薬や化学肥料の有無。添加物。抽出方法。発酵期間。希釈か濃縮か。甘さのごまかし方。製造地。
並べてみて、分かった。
同じ「酵素ドリンク」という名前でも、中身がまるで違う。
原料の数だけを売りにしているものがあった。飲みやすさのために余計なものが入っているものがあった。ただ糖分の強い飲料に見えるものがあった。製造の背景が、どこにも書かれていないものがあった。
駿に、癖がついた。
表のコピーではなく、裏の表示を見る。
ホームページの雰囲気ではなく、原料の表記を見る。
SNSも見た。ただ、入り口と割り切った。
発信は整えられる。写真も言葉も、磨けば光る。
原料や製造工程の話は、ごまかしにくい。
駿が見ていたのは、そっちだった。
ホームページを細かく見た。
原料の産地表記。製造元の表記。製造方法。よくある質問の書き方。「こだわり」のページの具体性。
言葉は立派なのに、肝心なことがどこにも書かれていない会社があった。
駿は、そこに違和感を持った。
気になった会社には、代表番号を調べて、直接電話をかけた。
「原料って、どこまで無農薬なんですか」
「発酵期間はどれくらいですか」
「これは濃縮なんですか、それとも希釈なんですか」
「製造工場はどちらなんですか」
煙たがられることもあった。
「そういう細かいことは企業秘密なので」
「それ、そこまで気にされるお客様、あまりいないんですよね」
駿は、少し冷めた。
同時に、確信が強くなった。
本物かどうかは、きれいに見せているかではない。
細かく聞かれたときに、どう答えるかに出る。
さらに調べた。
原料名を追った。製造元の所在地を地図で見た。同じ工場の別ブランドを探した。口コミは、良いものより悪いものを先に読んだ。
そして、自分が買った酵素ドリンクには、一つ特徴があると気づいた。
原料に対する執着が、異様に強い。
どれだけ売るかより、どう作るかを優先している空気があった。
大学時代のカレー屋の感覚に、重なった。
背景に人がいる。作り方に思想がある。手間を惜しまない理由がある。
飲んだ体感も、残っていた。
身体が軽い。内臓が休まる感じがある。無理に押し切るファスティングではない。
エステサロンのオーナーに報告した。
「実は、ファスティングやってみたんです」
「この酵素ドリンクを使って」
商品名を伝えると、オーナーは驚いた顔をして、それから笑った。
「よくそこに辿り着いたね」
「普通はそこまで調べないの」
そして、静かに言った。
「そのドリンク、うちで扱ってるのと同じ工場なんだよ」
オーナーは、説明した。
日本で唯一、完全に無農薬・有機栽培の原料しか使わない発酵工場がある。だから自分はこの商品を扱っている。
駿は、黙って聞いていた。
その夜、ずっと考えていた。
——一度、ちゃんと見てみたい。
その工場を。その背景を。
第五章
一隅を照らす
比叡山と、滋賀の山奥の工場
エステサロンのオーナーの紹介で、工場見学の機会をもらった。
駿は、東京から新幹線で滋賀へ向かった。
改札を出たところで、案内役の女性スタッフが手を振っていた。
「わぁ〜〜! 宇佐美さん〜!」
声が、大きかった。
駿は、少したじろいだ。
このテンションは、正直、苦手だった。
三列シートの車に乗った。参加者は駿と、その女性スタッフと、駒嵐迅という人と、ほかに数名。
車は、山に向かった。
「まず、比叡山に行きます」
駿は、何をしに行くのか、さっぱり理解できなかった。
工場を見に来たはずだった。
比叡山ドライブウェイを上がっていく。
ビルの密度が下がった。空が広くなった。
車内の話し声が、自然と小さくなっていった。誰かが静かにしろと言ったわけではない。音量の方が、場所に合わせて下がっていった。
着いて、車を降りた。
杉が、まっすぐ空へ伸びていた。
空気そのものに、張りつめた透明感があった。
静けさの質が、普段と違った。
駿は立ち止まって、はじめて気づいた。
ここは、自分の中の雑音がよく聞こえる場所だ。
作務衣姿の男が、歩いてきた。
駒嵐迅だった。
穏やかな顔だった。穏やかなのに、何を考えているかは読めなかった。
駒嵐は、歩きながら話した。
比叡山の歴史のこと。天台宗と天皇の関係のこと。千二百年前にこの山を開いた最澄のこと。この山が、長いあいだ人を育てる山だったこと。
織田信長の焼き討ちの話になると、駒嵐は一度言葉を止めた。
「諸説ありますので」
断定を、避けた。
根本中堂の脇に、石碑が立っていた。
駒嵐は、その前で足を止めた。
「忘己利他。己を忘れて、他を利する」
駿は、石の表面を見ていた。
「そして、一隅を照らす」
駒嵐は、それ以上説明しなかった。
説明しなかったから、残った。
車に戻って、山を下りた。
次に向かったのは、滋賀の山奥だった。
舗装が細くなり、ガードレールが途切れ、また現れた。
着いた場所に、看板はなかった。
発酵エキスの製造工場だった。
社長の久遠健一が、出てきた。
工場の中には、原料があった。
野菜。果物。黒糖。
発酵の場があった。菌を培養する場所があった。
樽が並んでいた。並べ方に、迷いがなかった。
匂いがした。甘いのとも酸っぱいのとも違う、深いところから立ち上がってくるような匂いだった。
久遠は、短く説明した。
二年のものがある。四年のものもある。
駿は、数字の意味をうまく掴めなかった。
二年。
自分が一番長く続けたトレーニングの一区切りが、三ヶ月だった。
駿は、聞いた。
すごいですね、と。
久遠は、首を振った。
「いや、何もすごいことあらへん。これが当たり前です」
そして、言った。
「私たちは、当たり前のことを、特別に熱心にやりきってるだけです」
駿は、その言い方に引っかかった。
当たり前のこと。
特別に熱心に。
やりきる。
三つが、一つの文の中にあった。
久遠は、続けた。
「派手な宣伝はもちろんしませんし、ホームページも作ってません」
駿は、顔を上げた。
「本当に求めてる人たちだけが、ご縁でつながればいい」
久遠が出した名刺には、番地だけが書かれていた。
地図の案内には、たどり着けない住所だった。
帰りの車の中で、駿は黙っていた。
自分の中にあった「本物」の定義が、組み替えられていくのが分かった。
成分を理解すること。製法を理解すること。それは前提だった。
その上に、もう一段あった。
どう生きるか。どう働くか。何を信じるか。
本物とは、そこまで含むものだった。
隣で、あの女性スタッフが窓の外を見ていた。
朝、苦手だと思った人だった。
いまは、違って見えた。
不器用なくらい、真っ直ぐな熱量だった。
駿は、自分がそれを苦手と呼んでいたことを、少し恥じた。
その夜、東京に帰る新幹線の中で、駿は一行だけメモを書いた。
真心のある仕事ができる人間になりたい。
書いて、少し照れて、すぐに画面を閉じた。
第六章
医者いらずの妙薬
健康というのは、生活です
比叡山と工場を見てから、駿はリアン株式会社のウェブセミナーに参加するようになった。
ほとんど欠かさず出た。
ある日、講師が久遠健一だという案内を見て、すぐに申し込んだ。
画面に、全国の参加者の顔が並んだ。
久遠は、最初に一つ投げた。
健康は、複雑だと思われすぎている。
そして、昔の人のほうが健康の本質を知っていた、と言った。
江戸時代の言葉だという。
医者いらずの妙薬。
四つだけだった。
よく笑うこと。
よく寝ること。
よく働くこと。
よく食べること。
「これだけで、だいたいの人は健康になります」
駿は、メモを取る手が止まった。
サプリメントに三百万円使った男が、四行の前で止まっていた。
久遠は、現代人の生活の乱れについて話した。
そして、言った。
「健康というのは、生活です」
久遠は、ときどきギャグを言った。
吉本興業の話を二度した。
二度ともスベった。
「もちろん、吉本でもいいですよ」
画面越しに、小さな笑いが起きた。
駿も、少し笑った。
質疑応答になった。
誰かが聞いた。
笑えないときは、どうすればいいですか。
久遠は、少し間を置いた。
「笑いなさいと言うのは、酷かもしれない」
そう前置きしてから、言った。
「行為は、感情より先行する」
姿勢を正す。深呼吸する。ちょっと笑ってみる。
「全部を変える必要はないんです」
「まず一つ、小さなこと」
そのあと、久遠は自分のことを少し話した。
「過去の私がそうでしたから」
そして、言った。
「うつの人はね、本当に辛いんですよ」
画面の中の久遠の顔が、変わった。
それまで笑っていた人が、一瞬、遠くを見る顔になった。
一秒か、二秒だった。
すぐに元に戻って、次の質問に移った。
誰も触れなかった。
駿だけが、その一秒を持ち帰った。
第七章
腸は第二の脳
人は出会いで変わる
セミナーの数日後、駿は駒嵐に連絡した。
少し時間をもらえないか、と。
画面がつながった。
駿は、率直に切り出した。
久遠社長が、うつの話をしたときの、ほんの一瞬の表情が、ずっと残っている。
駒嵐は、頷いた。
そして、話し始めた。
久遠は、もともと発酵業界で知られた酵素ドリンクの会社の、共同創業者だった。
三千万円を出資した。一部は父から借りた金だった。
専務取締役という肩書で、九年ほどいた。
会社を作った翌年、印鑑を勝手に使われて、役員登記を書き換えられた。
パワハラがあった。経営の対立があった。不正があった。
その期間、妻が大病で入院した。
家庭も、崩れた。
久遠は、うつ状態と診断された。
業界から締め出す圧力もかかった。
駒嵐は、言った。
「捨てる神あれば拾う神あり、です」
業界との関係が切れて、人を信じられなくなっていた久遠のところに、一人現れた。
日本で最大手のサプリメントメーカーの会長だった。
久遠のものづくりの凄さを評価して、仕事を依頼した。
それが、のちの事業につながった。
駿は、聞いた。
なぜ、そこまでもつれたのか。
駒嵐は、一つだけ挙げた。
久遠が曲げなかった点だ。
ものづくりだけは曲げてはいけない。
最高の品質を追う思想と、利益を最大にする思想。
二つは、ある地点までは並走できる。ある地点から先は、必ず衝突する。
話の終わりに、駒嵐は自分のことも言った。
「私は、その会社の営業マンでした」
駿は、画面を二度見した。
久遠が作った会社で、久遠が作ったものを売っていた。そして、久遠がリアンの工場を立ち上げる時点で、合流した。
「その事実を知った時は、正直、ひっくり返りました」
駿は、あとでそう書いている。
駒嵐は、淡々と言った。
「たぶんね、人は出会いで変わるんですよ」
久遠の言う「生き方としての健康」の意味が、駿の中で少しずつ形になっていった。
知識の話ではなかった。
通ってきた道の話だった。
会話の最後に、駒嵐が言った。
「腸脳相関です」
駿は、聞き返した。
駒嵐は、それだけ言って、画面を閉じた。
第八章
ひとつの流れ
腸・脳・感情・免疫
最後のセッションが終わったジムだった。
受付の照明は落ちていた。マシンエリアの奥だけが、薄く残光をまとっていた。
汗の匂いが、まだ少し残っていた。
駿は、ベンチに座って考えていた。
自分は長いあいだ、クライアントを分けて見てきた。
やる気がある人と、ない人。
続く人と、続かない人。
腸の話を聞いてから、その分け方が怪しくなってきた。
数日後の勉強会で、駿は率直に聞いた。
「なんで腸の話をすると、心の話になるんですか」
そして、正直に言った。
「正直、まだ一本になってないんです」
駒嵐は、沈黙を急かさなかった。
「いい質問ですね」
そう言って、ホワイトボードにペンを走らせた。
「腸と脳は、別々に動いているわけではありません」
神経を通じて、一つのシステムとしてつながっている。
ストレスがかかると、腸に影響が出る。
腸の調子が崩れると、気分が変わる。眠りが変わる。免疫が変わる。
駒嵐は、矢印を四つ書いた。
腸が乱れる。
神経伝達が変わる。
感情が変わる。
眠りが変わり、回復が変わる。
「それは気のせいではありません。実際に、つながっているからです」
駒嵐は、ペンを置いた。
「健康は、もっと人の生き方の近くにあります」
駿の胸の中にあった霧が、少しだけ薄くなった。
帰り道、風が少し冷たかった。
駿は、歩きながら考えていた。
来なくなったクライアント。途中でやめた人。できないと言った人。
あの人たちは、やらない人だったのか。
違うかもしれない。
動けない状態にあったのかもしれない。
そして、たぶん、その人の中にも声があった。
——本当は、もっと楽に生きたい。
駿は、立ち止まった。
身体を学ぶことは、人生を学ぶことなのかもしれない。
自分はまだ、その入口に立ったばかりなのだと思った。
第九章
なぜ笑うと免疫が上がるのか
人は、安心している時にしか回復しない
ホワイトボードには、前回の図が残っていた。
腸。感情。行動。
端に、単語が二つ書かれていた。
ストレス。コルチゾール。
駿は、理屈としては因果を理解していた。
それでも、現場の実感とは少しずれていた。
——そんなに単純なのか。
久遠が、駿を見て言った。
「君は、ちょっと真面目すぎるな」
駿は、顔を上げた。
「もっと、ゆるくていい」
戸惑った。
久遠は、続けた。
「これ、冗談じゃないんですよ」
久遠は、核心を言った。
回復に必要なのは何か。
「安心することです」
そして、言った。
「笑うと、人は一瞬でも安心に入るんです」
仕組みは、こうだった。
ストレスがかかると、コルチゾールが出る。緊張が続く。緊張が続くと、回復できない。
コルチゾールは、もともと身体を守る反応だ。短い時間なら、必要なものだ。
ただ、長引くと、守るはずのものが邪魔をする。
逆のほうは、こうだ。
笑う。安心に入る。副交感神経が働く。身体が回復モードに入る。
久遠は、言い切った。
「人はね、安心している時にしか回復しない」
駿の中で、前提が入れ替わった。
これまで自分は、努力と根性と習慣で人を変えようとしていた。
その前に、必要なものがあった。
回復できる状態である。
状態が整っていない人に、正しいやり方を渡しても、通らない。
通らないことを、相手の意志の弱さだと解釈していた。
駿の表情が、わずかに変わった。
久遠は、それを見て言った。
「そう、それでいいんです」
人が変わらない理由は、やり方ではないのかもしれない。
状態なのかもしれない。
第六章で聞いた四行が、ここで戻ってきた。
よく笑うこと。
あれは、精神論ではなかった。
第十章
共感と証拠
体重じゃないんです。人生です
駿は、駒嵐に相談した。
久遠の話を、どう伝えればいいか分からない。
話せば話すほど、相手の顔が遠くなる気がする。
駿は、自分の過去を振り返った。
正しいことを伝えてきた。続かなかった。
来なくなった人。途中でやめた人。できないと言った人。
かつては、なぜやらないのかと思っていた。
いまは、違うふうに思う。
伝わっていなかったのかもしれない。
駒嵐は、頷いた。
「いい質問ですね」
そして、ホワイトボードに言葉を書いた。
「人が変わるときには、必ず二つ必要なんです」
一つめ。
共感。
自分にもできるかもしれない、と思える感覚。
二つめ。
証拠。
この人みたいに変われるんだ、と信じられる実例。
駒嵐は、ペンの先で二つの単語を交互に指した。
「証拠がなければ、人は動かない」
必要なのは、実際に変わった人だ。実際に健康になった人だ。実際に人生が変わった人だ。
「未来を見せることは必要です」
駿は、聞いた。
自分は、何を売っているのか。
駒嵐は、間を置かずに答えた。
「体重じゃないんです。人生です」
駿は、ホワイトボードを見ていた。
腸。神経。感情。そして、人生。
それがひとつの流れとしてつながっていた。
自分がやってきたことは、無駄ではなかった。
ただ、順番が逆だった。
正しさを渡してから、共感を探していた。
共感が先で、正しさは後だった。
駿は、小さく息を吐いた。
自分はやっと、スタートラインに立ったのかもしれない。
第十一章
教育は最大の親切
東京ビッグサイト、三日間
東京ビッグサイト。
展示会の会場に、無数のブースが並んでいた。美容機器。サプリメント。健康食品。
人の波が、通路を押していた。会場は、熱気に包まれていた。
駿は、アシスタントとして参加していた。
報酬はない。交通費も自分で出した。
参加した理由は一つだった。一日で何百回もカウンセリングができる、と聞いたからだ。
リアンのブースには、三人の先輩が立っていた。
瀬戸口。望月。川村。
瀬戸口は、通る人一人ひとりに声をかけていた。
立ち止まった人には、短く質問をした。相手が答える。もう一つ質問をする。相手が、自分でも気づいていなかったことを言葉にする。
駿は、それを横で聞いていた。
対話の質が、違っていた。
駿は、立っているだけだった。
何をすればいいか分からなかった。それもあった。
もう一つ、理由があった。
通る人の大半は、自分たちの客ではないと思っていた。
瀬戸口が、振り向いた。
「さっきから、ずっと立ってるだけじゃない」
駿は、言った。
ターゲット以外に声をかけるのは、無駄ではないか、と。
瀬戸口は、少し笑った。
「その”ターゲット”って言葉がすべてよ」
瀬戸口は、通路のほうを見ながら言った。
「売ろうとすると売れない」
そして、言った。
「救おうとすると売れるの」
駿は、黙った。
瀬戸口は、自分のことを話した。
「私は、この商品に救われた」
声は穏やかだった。穏やかなのに、芯があった。
隣にいた望月が、補った。
「お客様って、理解した瞬間に変わるの」
駿は、二人の顔を交互に見た。
反対側では、川村の周りに自然と人の輪ができていた。
何が起きているのか、駿には見えなかった。
瀬戸口が、駿の背中を軽く叩いた。
「せっかく来たんだから、ちゃんとやろうよ」
駿は、一歩前に出た。
通りかかった人に、声をかけた。
何を言ったのか、あとで思い出せなかった。
ただ、その人が足を止めた。
教育は最大の親切。
その日、誰かがそう言った。
駿は、その言葉をメモした。
顧客教育というのは、商品説明のことではなかった。
人を大切にする姿勢そのものだった。
人が動くのは、売られたときではない。
理解したときだ。
駿の中で、前提が崩れた。
ターゲット以外に声をかけるのは無駄、という計算は、どこから出ていたか。
効率からだった。
効率は、正しい。
ただ、効率の外側に、人がいた。
第十二章
内なる原動力
人は、能力で動くんじゃない
展示会の三日目。
朝から、会場は熱気に包まれていた。人の流れは止まらなかった。
駿は、三人を観察していた。
瀬戸口は、淡々と声をかけ続けていた。
「こんにちは。よかったら見ていってください」
丁寧で、一定だった。
駿は、見ていて思った。
——この人、教えてるな。
望月は、違った。
相手の言葉を受け取って、頷いて、待った。急がなかった。
相手の肩が、だんだん下がっていくのが見えた。
——この人、ほどいてる。
川村は、まるで違った。
声が大きい。動きが大きい。笑顔が大きい。
川村が笑うと、周りの空気が変わった。笑いが起きた。輪ができた。
駿は、困惑した。
三人とも、やり方がまるで違う。
それなのに、全員うまくいっている。
——なんなんだ、この人たちは。
空き時間に、駿は駒嵐に聞いた。
あの三人は、何を扱っているんですか。
駒嵐は、短く答えた。
「人が動く理由です」
そして、言った。
「人は、能力で動くんじゃない。欲求で動くんです」
駒嵐は、五つ挙げた。
生きたい。
安心したい。
つながりたい。
認められたい。
自分らしくありたい。
人の行動は、どれかを満たすために起きている。
駒嵐は、三人の名前を順番に出した。
瀬戸口は、自分らしくありたいという欲求で動いている。だから、教える。自分が通った道を、自分の言葉で渡す。
望月は、安心とつながりの欲求で動いている。だから、ほどく。相手が力を抜ける場所を作る。
川村は、影響の欲求で動いている。だから、空気を変える。場の温度を上げる。
駿は、聞いた。
自分は、何ですか。
駒嵐は、少し笑った。
「探究でしょうね」
駿は、自分の手を見た。
サプリメントの成分表を並べた手だった。会社に電話をかけた手だった。口コミの悪いほうから読んだ手だった。
テクニックの差ではなかった。
行動は、欲求の結果だった。
そして、三人は全員、人のために本気で生きていた。
形が違っただけだった。
帰り道、駿は決めた。
この会社を、もっと深く学ぶ。
探究という欲求が、はじめて行き先を持った。
第十三章
改善の速度
まず動く。そして、直す
展示会が終わった。
駿の頭には、三人の姿と言葉が残っていた。
瀬戸口の「売ろうとすると売れない。救おうとすると売れる」。
望月の「人は自分で変わる」。
同時に、別のものも残っていた。
悔しさである。
——自分には、まだ何もできない。
そして、焦りだった。
——このままじゃダメだ。
駿は、駒嵐のところへ行った。
ホワイトボードの前に座った。
駒嵐は、まず否定しなかった。
「宇佐美さんは、宇佐美さんでいい」
駿は、顔を上げた。
駒嵐は、ペンを取った。
「強くなる人には、共通点があります」
そして、書いた。
改善が早い人。
駒嵐は、二つの輪を描いた。
一つめ。
Plan。Do。Check。Action。
計画から始まる。
二つめ。
Observe。Orient。Decide。Act。
観察から始まる。
「計画より、現場を見る」
駒嵐は、二つめの輪を指した。
「強い人は、完璧な準備をする人じゃないです。動きながら修正できる人です」
そして、言った。
「早く動く人が強い」
駿の中で、結論が立った。
成長とは、改善の速度である。
能力は、今すぐには変えられない。
改善の速度は、今この瞬間からでも変えられる。
帰り道、駿は口の中で繰り返した。
まず動く。そして、直す。
崩れないことを選んできた男が、はじめて、崩れてもいいと思った。
直せるなら、崩れてもいい。
第十四章
現場の即応体制
探してる顔
福岡だった。
マリンメッセ福岡で開かれる展示会に、駿は出た。
行くかどうか、迷った。交通費も宿泊費も自己負担で、報酬はない。
背中を押したのは、二つの言葉だった。
望月が言った。
「ここで一気に伸ばさないともったいないよ」
瀬戸口が言った。
「営業も販売も、技術だから」
当日、駿はブースの端に立っていた。
会場には、体温のようなものがあった。
ある一分間のことだ。
川村が、ふいに動いた。通路の向こうから歩いてきた人のほうへ、まっすぐ行った。
駿には、何も見えていなかった。
あとで聞いた。
川村は、あっさり言った。
「探してる顔」
空き時間に、駒嵐が駿に聞いた。
今、何人通りましたか。
駿は、答えられなかった。
どんな状態の人がいましたか。
答えられなかった。
駒嵐は、淡々と言った。
「それが現場です」
駒嵐は、ホワイトボードもない場所で、口だけで説明した。
「現場で強い人は、日常で鍛えているんです」
「人間観察って、一朝一夕では身につきません」
続けると、どうなりますか。
駒嵐は、短く言った。
「目が変わります」
駒嵐は、タイプの違いにも触れた。
川村は、人と比較しない。自分がどう生きたいかだけを見ている。あれは天性のセンスだ、と。
「私と宇佐美さんは、違います」
駒嵐は、自分を指した。
「人の目が、気になる」
駿は、動けなかった。
二十年以上、自分の弱さだと思ってきたものの名前を、はじめて他人の口から聞いた。
駒嵐は、続けた。
「それは、観察力の素質です」
夕方、マリンメッセから地下鉄の駅まで歩いた。
福岡の夕方の風が、少しだけ涼しくなっていた。
帰りの地下鉄で、駿は数え始めた。
乗っている人、およそ三十人。
スマートフォンを見ている人、およそ十五人。
吊り広告は、美容クリニックとダイエットサプリ。
同じ車両の中で、顔の表情がまるで違った。
降りる人の歩く速度が、微妙に違った。
呼吸が、違った。
その日から、駿は観察を続けた。
電車で。カフェで。街の中で。
数えて、見て、覚えた。
そのうち、あることに気づいた。
人って、面白い。
比べるために人を見ていた男が、はじめて、知るために人を見ていた。
第十五章
あなたは、どうしたいんですか
福岡の夜のタクシー
撤収が終わった。
展示会の熱気が、嘘のように静まり返っていた。
駿と駒嵐は、タクシーに乗った。博多駅へ向かう道だった。
港の灯りと、街の明かりが、ゆっくり流れていった。
沈黙があった。気まずい沈黙ではなかった。
駒嵐が、聞いた。
どうでしたか、と。
駿は、答えた。
「すごかったです」
それから、本音が漏れた。
自分は、まだ何もできていない。
駒嵐は、駿の事情に触れた。
勤めていたジムが閉まる話。知り合いから持ち込まれていた、ヘッドスパの話。
どちらも、駿が誰にも相談していないことだった。
駒嵐は、そこから先を聞かなかった。
代わりに、言った。
「一緒にやりませんか」
駒嵐は、淡々と続けた。
精鋭の集団を作りたい。最強のチームを作りたい。
そして、駿への評価を言った。
素直で、実直だ。オーガニックへの関心が強い。
車内の空気が、張り詰めた。
駿は、すぐに答えられなかった。
彼女のこと。親のこと。生活のこと。
頭の中が、相談すべき相手で埋まった。
駒嵐は、待たなかった。
直球で、問うた。
「あなたは、どうしたいんですか?」
駿は、黙った。
駒嵐は、もう一度重ねた。
「もし何の制限もないとしたら、どうしたいですか?」
逃げ道が、一本ずつ消えていった。
駿は、気づいた。
自分は今まで、やりたいことを言ったあとに、できない理由を並べる癖があった。
並べれば、誰も責めない。自分も責めない。
崩れない。
駒嵐は、最後に言った。
「今、この瞬間に自分の人生を決断するなら、リアンは喜んで宇佐美さんを迎えます」
言葉が、真っ直ぐ胸に入ってきた。
駿は、口を開いた。
「やっぱり、やりたいと思います」
一度言葉を切って、言い直した。
「やります。やらせてください」
何かが、ふっと軽くなった。
二十数年ぶりだった。
誰とも比べずに、自分で決めた。
博多駅の近くの居酒屋に入った。
笑い声。グラスの音。呼び込みの声。活気が、店の壁まで満ちていた。
瀬戸口。望月。川村。駒嵐。そして、駿。
駒嵐が、グラスを上げて言った。
「宇佐美さん、仲間になります」
瀬戸口が、声を上げた。
「最高じゃないですか!」
川村が、身を乗り出した。
「いつ滋賀来るんですか?」
駿は、頭を下げた。
顔が、熱かった。
後日、駒嵐は久遠に報告した。
久遠は、短く言ったという。
あの子はどちらかというと物静かで、大胆な行動をするようには見えなかった。でも、彼なりに感じるものがあったのだろう。
そして、こう続けた。
「人は、意味を見つけたときに、人生を動かしますから」
その夜、駿は彼女にメッセージを送った。
「一緒に滋賀行かない?」
返事は、すぐに来た。
「めっちゃいいじゃん。楽しそう。自然もあるしね」
駿は、画面を見て、一人で笑った。
最終章
想いの翻訳者
種子島の一ヶ月
転職。引っ越し。そして、結婚。
三つが、同じ季節に重なった。
東京から滋賀へ移り、駿はリアン株式会社に入った。営業の仕事だった。
現場で、すぐに壁に当たった。
東京で積み上げてきた感覚が、そのまま通用するわけではなかった。
知識を伝えるだけでは、人は動かなかった。
同じことを、何度も学び直した。
ある日、駒嵐が言った。
「種子島に住み込みで、一ヶ月間仕事してきてください」
駿は、言葉を飲み込んだ。
その夜、妻に話した。
返事は、即答だった。
「え!? いいじゃん、行ってきなよ!」
種子島に着いた。
どこまでも、サトウキビ畑が続いていた。
空が広かった。
ここの主役は、人ではなかった。自然だった。
毎日、畑に入った。
サトウキビを刈った。運んだ。搾った。シロップを作る工程に入った。
日差しは容赦がなかった。湿気が重かった。台風も来た。雨も降った。
毎日、汗まみれだった。
土の匂いがした。風の音がした。
手のひらに、刃物と茎の感触が残った。
地元の農家と働いた。加工の職人と働いた。同僚と働いた。
名前を覚えて、顔を覚えて、手つきを覚えた。
農業というものを、はじめて見た。
土を見る。天気を見る。季節を読む。時間をかける。手をかける。
単純な作業の積み重ねが、実は重労働だった。
一本のサトウキビの後ろに、何ヶ月かが立っていた。
駿の中で、原料という言葉の意味が変わった。
材料ではなかった。
農家の人生そのものだった。
職人の仕事も、見た。
効率や利益だけでは説明できない手間が、見えないところにいくつも入っていた。
誰も見ないところを、削らなかった。
久遠が言っていた言葉が、ここで戻ってきた。
当たり前のことを、特別に熱心にやりきる。
最終日。
駒嵐が、島に来た。
一緒に畑を歩いて、工場を回った。
空港へ向かう車の中で、駒嵐が言った。
「宇佐美さん、成長しましたね」
駿は、嬉しくて、同時に照れた。
窓の外を見て、少しだけ黙った。
駒嵐は、続けた。
「私たちは商品を売っているわけではありません」
そして、言った。
「価値観を伝えています」
駿の中で、オーガニックの意味が定まった。
無農薬という条件のことではなかった。
本来あるべき循環に戻ろうとする姿勢のことだった。
自然と人が、無理なく共に生きること。
そして、自分の役割にも名前がついた。
想いの翻訳者。
農家の想いを、職人の誇りを、自然の恵みを、受け取って、次の人に渡す。
駿が一人で掘り続けてきた癖は、そのためのものだった。
裏の表示を見る癖。細かく聞く癖。悪い口コミから読む癖。
全部、翻訳のための道具だった。
仕事の意味が、変わった。
利益を生む労働から、未来をつくる営みへ。
飛行機が高度を上げて、島が小さくなった。
駿は、窓に額を近づけて、サトウキビ畑を探した。
もう、見えなかった。
見えなくても、あることを知っていた。
隣の家の男の子と比べていた少年は、もう、いなかった。
比べるのをやめたのではない。
比べる必要が、なくなっただけだった。
第一章
村を出ると決めた少年
最初の根
山に囲まれた町だった。
川は澄んでいた。山は深かった。外から来た人は、いい場所ですねと言った。
住んでいる者には、別の顔が見えていた。
誰がどこへ行った。誰と会った。何をした。
昨日の出来事は、今日には噂になっていた。噂は、だんだん悪口になった。悪口は、そのうち町の空気になった。
どこへ行っても、同じ顔ぶれだった。同じ価値観だった。同じ人生だった。
この町で生まれた人は、この町で生きる。
誰も口に出さないのに、そう決められているようだった。
小学生の頃、母の車に乗ると、いつも同じCDが流れていた。
川村聡は、その音楽に捕まった。
力強いドラム。まっすぐなギター。そして、胸の奥をえぐるような言葉。
友達がサッカーをしている時間に、聡は誰よりも早く家に帰った。
CDをかけた。同じ曲を、何度も繰り返した。
歌詞を、紙に書き写した。
言葉の意味を考えた。言葉の温度を考えた。
同じ言葉でも、並べる順番が変わると、心が動く量が変わる。
それを、音楽から学んだ。
勉強は、得意でも好きでもなかった。
ただ、興味を持ったものには、異常な集中力を見せた。
ある曲の中に、高い壁ほど登りきったときの気持ちがいい、という意味の一節があった。
聡は、それを自分のことだと思った。
この町は、壁だ。
中学三年の秋、聡は進路を決めた。
地元の高校ではなかった。
電車で通う高校だった。
周りから見れば、些細なことだった。隣の町の高校に行くだけだ。誰も大げさに反応しなかった。
聡にとっては、人生を変える挑戦だった。
合格通知が来た。
はじめて電車に乗って通う日。
窓の外の景色が、ゆっくり遠ざかっていった。
見慣れた山が、角度を変えた。
聡は、座席に座って、ずっと外を見ていた。
——人生は、変えられる。
あの日の小さな一つが、聡の最初の根になった。
根は、地上からは見えない。
それでも、のちに嵐が来たとき、残っていたのはその根だけだった。
第二章
命の重さを知った日
棺の前の財布
高校を出て、聡は大阪に出た。
迷わず、音楽の道を選んだ。
ギター。ベース。バンド。ライブハウスのステージ。スポットライト。観客の歓声。
音楽は、趣味ではなかった。生き方だった。
二十歳の頃、バンドはCDを出した。
タワーレコードの棚に、自分たちのCDが並んでいた。聡は、客のふりをして何度もその棚の前に立った。
ラジオにも出た。全国を回った。
長くは続かなかった。
メンバーの脱退が、続いた。
最終ライブの日が決まった。
——今日で終わりか。
そう考えると、辛かった。
最後までいたボーカルと、終演後に何も話さなかった。話すことが思いつかなかった。
聡は、営業会社に入った。
売れた。
初月で、月収が百万円を超えた。六ヶ月目に、二百万円になった。
その会社の空気は、はっきりしていた。
結果が全て。
結果を出せない者は、人として扱われなかった。
聡は、結果を出した。だから、人として扱われた。
満たされているはずだった。
それなのに、どこか埋まらない感覚があった。
名前を付けられなかった。付けないまま、翌月も売った。
聡には、弟がいた。
生まれつき、非常に稀な病を持っていた。
百万人に一人とも言われる病だと、医者は言った。
母も父も、ずっと苦しんでいた。病院。検査。祈るような日々。
家族は、その命を守ろうとしていた。
そのあいだ、聡は自分の人生を生きていた。
音楽と、仲間と、自分の世界があった。
弟と深く話したことは、ほとんどなかった。
危篤の連絡が来た。
実家からの電話だった。
「何してるの! 早く帰ってきて!」
母の声だった。
聡は、大阪から滋賀の病院へ向かった。
病室の弟は、見たことがないぐらい、たくさんの線が繋がれていた。
聡は、ベッドの横に立った。
何を言えばいいか、分からなかった。
結局、何も言わなかった。
命が、終わった。
昨日までそこにいた存在が、突然いなくなった。
そういうことが起きるのだと、聡はその日に知った。
葬儀の日。
棺の前で、母が何かを手にしていた。
「これも入れてあげようと思うの」
母の手の中にあったのは、財布だった。
聡の、息が止まった。
見覚えがあった。
中学生の頃、何気なく弟にあげたものだった。
自分が使わなくなったから渡した。特別な意味はなかった。渡したことすら、ほとんど忘れていた。
弟は、それをずっと大事に持っていた。
聡は、それを、葬式の日にはじめて知った。
涙が、止まらなかった。
命は、永遠ではない。
健康は、当たり前ではない。
二つの文が、その日、聡の深いところに刺さった。
抜けないまま、何年も残った。
第三章
崩壊
七千万円
二十六歳で、バンドは解散した。
事務所とのトラブル。価値観の違い。理想と現実のずれ。
よくある話だった。よくある話でも、自分に起きると人生の形が変わる。
音楽が、聡に残したものが三つあった。
人前に立つ力。
言葉で人を動かす力。
場の空気を変える力。
聡は、それを営業の世界に持ち込んだ。
驚くほど、売れた。
高額の商品が決まった。迷っている人の背中を押せた。人の心の温度が、読めた。
扱ったのは、ファスティング。高額講座。その他、いくつもの商材。
周りは、聡をこう呼んだ。
営業の天才だ。
聡は、自分の会社を持った。
店舗を構えた。サロンを増やした。スタッフは二十人になった。
毎月の固定費は、恐ろしい額だった。
それでも、売上が入ってくる限り、回った。
コロナが来た。
店舗が止まった。
サロンの来客が、ゼロになった。
売上が消えても、固定費は消えなかった。
機材。車。設備。在庫。
全部が、音を立てて崩れた。
スタッフが、離れていった。組織が崩れた。
残ったのは、七千万円の負債だった。
選択肢は、あった。
自己破産。夜逃げ。事業の撤退。
どれも、現実的だった。
聡は、選ばなかった。
「借りたものは返したい」
そう言った。
「自己破産という道よりも、自分でしっかり立て直したい」
格好をつけたわけではなかった。
棺の前で見た財布のことが、頭から離れなかった。
自分が軽く渡したものを、誰かが重く持っていることがある。
借りた金も、同じだと思った。
その頃、聡はSNSで一人の発信を見つけた。
身体のこと。農業のこと。発酵のこと。微生物のこと。本質のこと。
言葉が、売るためのものではなかった。
嘘がなかった。
駒嵐迅という人だった。
聡は、連絡した。
会う場所に指定されたのは、比叡山のふもとだった。
山道を抜けた先に、看板のない工場があった。
そこで、駒嵐迅と久遠健一に会った。
流行の話は、一つも出なかった。
本質しかなかった。
帰り道、聡は自分の来た道を振り返った。
売ってきたものを、一つずつ思い出した。
何も答えが出ないまま、一つの問いだけが残った。
——自分は、何を売ってきたんだ。
次に会ったとき、聡は駒嵐に言った。
「本気でやります」
駒嵐は、頷いた。
「じゃあ、一緒にやりましょう」
その場で、握手をした。
本当にいいものを伝えたい。
そのとき聡の中にあったのは、それだけだった。
まだ、やり方は何も分かっていなかった。
第四章
見えない世界が、現実をつくる
良樹細根
崩壊の前から、違和感はあった。
何かがおかしい。
言葉にできなかった。
売上と数字だけが、判断の基準だった。それで何年も回っていた。回っているうちは、基準を疑う理由がなかった。
崩れたあとの日々を、聡はあまり覚えていない。
布団から出られなかった。
朝なのか、昼なのか、夜なのか、分からなかった。
督促の電話が、毎日鳴った。
スタッフも、取引先も、次々と離れていった。
聡は、誰も止めなかった。
「それでもいいです。むしろ、離れてくれた方がほっとします」
そう言った。
最後に側にいたのは、駒嵐だけだった。
駒嵐は、悲観しなかった。焦りもしなかった。
「必ず再起できます」
断定だった。
聡は、その断定の仕方に少し救われた。
励ましが疑問形でないことには、意味がある。
あるとき、駒嵐が聞いた。
「木って、どうやって倒れるか知ってますか?」
聡は、考えた。
強い風が吹いたら倒れる。幹が折れたら倒れる。
駒嵐は、首を振った。
「根が浅いから倒れるんです」
聡は、黙った。
自分の組織を、順番に思い返した。
理念は、あったか。
掲げていた言葉はあった。朝礼で読んでいた。
価値観は、共有されていたか。
売れる人間が偉いという暗黙の了解は、あった。
あり方は、どうだったか。
誰も、それについて話したことがなかった。
聡は、言った。
「うちの組織、根なんて無かったです」
言った瞬間、涙が出なかった。
むしろ、すっきりした。
良樹細根という言葉を、聡はそのときはじめて知った。
良い樹は、細い根を深く、広く張っている。
地上に見えている部分の立派さは、地下の細かさに支えられている。
見えないものが、見えるものを決める。
理念。価値観。信頼。誠実。あり方。
全部、見えない。
見えないから、削っても誰にも分からない。
削ったことが分かるのは、嵐の日だけだ。
外の出来事は、ただのきっかけだった。
コロナは、原因ではなかった。
聡は、自分の崩壊を自分の言葉で言い当てられるようになった。
理論としてではなく、体験として分かった。
分かった地点が、底だった。
底からは、上しかない。
第五章
健康食品が健康を害している
足すことやない。整えることや
滋賀県の山の中だった。
比叡山の麓から山道を抜けた先に、その工場はあった。
派手な看板も、広告も、なかった。
七千万円の借金を抱えて、組織を失った男が、そこに立っていた。
聡は、緊張していた。
久遠健一が、穏やかな笑みを浮かべて、ゆっくり歩いてきた。
「駒嵐さんからは聞いてるよ」
聡は、頭を下げた。
久遠は、聡の過去をそれ以上聞かなかった。
代わりに、隣にいた駒嵐のほうを見て言った。
「駒嵐さんも、昔は大変な時期あったんや」
駒嵐が、苦笑いで頷いた。
久遠は、聡に向き直った。
「あなたも、ここからやろ」
工場の奥へ案内された。
歩きながら、久遠が聞いた。
「健康食品って、何やと思う?」
聡は、答えに詰まった。
自分が何年も売ってきたものだった。
説明は、いくらでもできた。
できるのに、言葉が出なかった。
久遠は、自分で続けた。
多くの健康食品は、添加物と、過剰摂取と、ビジネス化によって、健康を作るどころか身体を壊している。
聡は、黙って聞いていた。
「足すことで健康になるんやない」
久遠は、立ち止まった。
「整えることで健康になる」
身体には、自分で釣り合いを取る仕組みがある。
恒常性という。
それを無視して栄養を足し続けると、身体は混乱する。
「身体は、そんな単純やない」
久遠は、そう言った。
久遠は、農業もしていた。
耕作放棄地を借りて、野菜を育てていた。
「人間も、その中の一つなんよ」
自然の循環の話をしているのだと、聡はしばらくして気づいた。
久遠は、最後に一つ、問題を挙げた。
「癌が多すぎることや」
声は、淡々としていた。
淡々としているのに、重かった。
聡は、驚いていた。
同時に、少し救われていた。
自分が売ってきた商品に対して、ずっと持っていた違和感。
その正体が、ようやく形を持った。
帰りの車の中で、聡は思った。
——自分は、まだ何も知らなかった。
恥ずかしかった。
恥ずかしいのに、嫌ではなかった。
もっと知りたい。本当に身体を理解したい。
四十を手前にして、学び直しが始まった。
第六章
ファスティングビジネスの光と影
大事な人のために作ってるんや
見学が終わって、工場の中の小さな打ち合わせスペースに移った。
夕方だった。
窓の外に、山の稜線が見えた。
久遠と、駒嵐と、聡の三人だった。
久遠が、聞いた。
今まで何をしてきたのか。
聡は、話した。
ファスティングの講座。高額のプログラム。酵素ドリンクの販売。説明会。クロージング。
話しているうちに、自分の声が小さくなっていった。
話し終えて、聡は言った。
「今まで自分が関わってきた健康ビジネスを、全部否定された気がして」
久遠は、否定しなかった。
ただ、事実を並べた。
ファスティングという言葉が市場に広がる過程で、何が起きたか。
「健康より、売上。それが先に来てる」
三日で体質改善。
七日で生まれ変わる。
そういう謳い文句が並んだ。
「体質が三日で変わるんやったら、三日で壊れるわな」
久遠は、湯呑みを両手で包んだ。
そして、はっきり言った。
「このドリンクは、使ってほしくない」
聡は、顔を上げた。
久遠は、自分が作っているものについて言っていた。
「売るために作ってるんやない」
少し間を置いた。
「大事な人のために作ってるんや」
「そのつもりで扱えるかどうか」
空気が、張り詰めた。
誰も何も言わなかった。
久遠が、湯呑みを置いた。
陶器が机に当たる音が、妙にはっきり聞こえた。
久遠は、聡を見た。
「あんたは、両方知ってる」
売る側の仕組みも、売られる側の気持ちも。
「それが、あなたのミッションや」
本来のファスティングは、派手なものではない。
身体を休める。消化器を休める。身体のリズムを整える。
それだけだ。
それだけのことが、商売の言葉に飾られて、別のものになっていた。
戻せばいい、と久遠は言った。
本来の健康の知恵として、取り戻せばいい。
帰り際、駒嵐が言った。
「過去はもう変えられない。でも未来は、今から作れる」
聡は、頷いた。
頷いて、はじめて、自分の過去を自分の荷物として持ち直した。
捨てるのではなかった。
持ったまま、向きを変えるのだった。
第七章
酵素神話
知らずにやるのと、知っていてやるのは違う
工場の中のテーブルに、酵素ドリンクの瓶が置かれた。
窓の外に、山の稜線があった。
発酵の、やわらかな香りが漂っていた。
駒嵐が、先に言った。
「この話は、久遠さん自身の体験から来ている話なんです」
久遠は、瓶の一つを手に取った。
市場に出回っている複数のメーカーの商品が、同じ発酵エキスを使っている可能性が高い。
その話だった。
工場には、二種類ある。
発酵させる工場と、詰める工場だ。
ラベルに書かれている製造者は、詰めた側であることが多い。
どこで作られたかと、誰が発酵させたかは、別の話だった。
久遠が本来は顧客の身体のために開発した製法が、別の名前で、別の思想のもとに流れていた。
久遠は、それを淡々と話した。
怒っていなかった。
怒っていないことが、かえって重かった。
糖の話にもなった。
飲みやすくするために、糖が入る。血糖値が急に上がって、急に落ちる。
身体を休めるために飲んでいるものが、身体を揺らしている。
そして久遠は、核心を言った。
「酵素ドリンクを飲んでも、酵素は増えへん」
聡は、動かなかった。
「酵素はな、身体の中で作られるもんや」
聡は、自分が講座で話してきた言葉を思い返した。
酵素が足りないから、補いましょう。
生の酵素を取り入れましょう。
何百回、言ったか分からない。
嘘をつくつもりは、一度もなかった。
ただ、調べていなかった。
渡された資料を、そのまま喋っていた。
沈黙が、流れた。
誰も、聡を責めなかった。
責められないほうが、きつかった。
駒嵐が、静かに線を引いた。
「知らずにやるのと、知っていてやるのは、全く違います」
聡は、その言葉を飲み込んだ。
今日から、自分は知っている側になる。
戻れない場所に、来てしまった。
来てよかった、と思った。
「身体は、そんな単純やない」
久遠が、もう一度言った。
聡はこの日、言葉の責任という重さを、はじめて自分の両手で持った。
第八章
説得から納得へ
人は、知識を買ってるわけじゃない
学び直しの結果、聡の講座は変わった。
知識の量が、増えた。
話せることが、倍になった。
受講者のアンケートの点数も、上がった。
聡は、良くなったと思っていた。
ある日、駒嵐が数字を見ながら言った。
受講後に実際に行動した人の割合が、落ちている。
聡は、信じられなかった。
内容は、確実に良くなっている。
駒嵐は、ページをめくった。
「説明が増えてる。理解より先に、知識が来てる」
駒嵐は、紙に三つ書いた。
Feature。
Advantage。
Benefit。
特徴。利点。そして、その人の人生にとっての価値。
「川村さんの講座は、FeatureとAdvantageで止まってます」
聡は、自分の話す順番を思い返した。
原料の話。発酵期間の話。腸の話。恒常性の話。
全部、正しい。
全部、相手の人生に着地していない。
駒嵐は、ペンを置いた。
「人は説得では動きません。納得したときに動くんです」
そして、言った。
「人は、知識を買ってるわけじゃない。未来を買ってるんです」
聡の頭に、久遠の声が重なった。
酵素は、身体の中で作られるもんや。
身体は、そんな単純やない。
あれは、知識を渡す言い方ではなかった。
聡が自分の持っているものを疑うように、仕向ける言い方だった。
久遠は、答えを言わずに、問いを置いていた。
聡は、気づいた。
営業時代の自分は、説得する人だった。
学び直したあとの自分は、説明する人になった。
形は変わった。
立っている場所は、変わっていなかった。
どちらも、相手の人生に入っていなかった。
人は、自分の人生に繋がった瞬間に変わる。
聡は、その一行をノートの一ページ目に書いた。
翻訳者になるのだ、と決めた。
正しさを、その人の明日の言葉に訳す仕事だ。
第九章
第二領域の守護
近くにいる人を、大切にする
生活は、少しずつ変わっていた。
それでも聡の頭の中は、返済と、売上と、講座で埋まっていた。
追われている感覚のまま、走っていた。
走るのをやめたら、終わる気がしていた。
ある日、駒嵐が切り出した。
「少し人生、整理しましょう」
ホワイトボードに、縦と横の線を引いた。
四つの箱ができた。
一つめ。
緊急で、重要なこと。
返済。トラブル。支払い。クレーム。締切。
「ほとんどの人が、ここで生きています」
聡は、苦笑した。自分の一日が、そのまま箱に入っていた。
二つめ。
緊急ではないが、重要なこと。
健康。学び。人間関係。家族。未来の準備。
駒嵐は、その箱を丸で囲んだ。
「人生を変えるのは、第二領域なんです」
聡は、その箱を見ていた。
どれも、今日やらなくても誰にも怒られないものだった。
怒られないから、ずっと後回しにしてきたものだった。
駒嵐は、言った。
「本当に大切なものほど、近くにありすぎて見えなくなる」
駒嵐は、ペンを置いた。
そして、少し声を落として言った。
「もし人生を立て直したいなら、近くにいる大切な人を大切にしてください」
聡の中に、いろんな顔が浮かんだ。
母の顔が浮かんだ。
父の顔が浮かんだ。
線の繋がれた弟の顔が浮かんだ。
棺の前で財布を持っていた母の手が、浮かんだ。
聡は、胸が詰まった。
自分は、ずっと遠くを見ていた。
遠くを見ていれば、近くを見なくて済んだ。
近くを見ないのは、楽だった。
帰り道、聡は歩く速度を落とした。
意識して落としたのではなかった。
落ちたのだった。
これからの人生は、ただ走り続ける人生じゃない。
守るものを決めて、歩く人生にしたい。
聡は、そう決めた。
第十章
対話の質
二人とも、同じことを言っている
会議室に、資料が並んでいた。
ブースのイメージ。動線図。セミナー案。配布資料。
展示会に向けた会議だった。
駒嵐の質問が、次々と飛んだ。
来場者の人数。立ち寄る率。カウンセリングに入る率。その後の連絡。
圧倒的な速度だった。
新しい人に、どう出会うか。
駒嵐の頭は、そこに全部向いていた。
その流れの中で、望月が静かに手を挙げた。
「確認してもいいですか」
一度、全員の手が止まった。
「展示会後の動線は、すごく良いと思います」
そう前置きしてから、望月は言った。
今のお客様は、どうなりますか。
新しい人に向けた施策が強くなると、今まで通ってくださっている方の居場所が薄くなることがある。
空気が、少し硬くなった。
駒嵐は、未来を作る側に立っていた。
望月は、いまある関係を守る側に立っていた。
どちらも、間違っていなかった。
二つが並ぶと、会議はどちらかを選ぶ方向に進みやすい。
聡は、少し考えてから口を開いた。
「ちょっと整理していいですか?」
全員が、聡を見た。
「たぶん、二人とも同じこと言ってると思うんです」
聡は、ホワイトボードの前に立った。
矢印を二本引いた。
「導線を分けるんじゃなくて、”体験価値”を分けるんです」
既存のお客様には、信頼が深まる体験を。
はじめての方には、出会いが生まれる体験を。
目的は、どちらも同じだった。
関係を育てる。
駒嵐が、短く言った。
「それです」
少し間を置いて、続けた。
「うん、それでいきましょう」
会議室が、少し静かになった。
揉めたから静かになったのではなかった。
意味が整理されたから、静かになった。
聡は、席に戻って、自分の手を見ていた。
ステージで、場の空気を変えるのが得意だった。
営業で、人の背中を押すのが得意だった。
ずっと、前に出る人間だと思っていた。
いま自分がやったのは、違う仕事だった。
言葉をつなぐ仕事だった。
対話の質が、組織の質を決める。
話がうまいこととは、関係がなかった。
二人の言っていることの、重なっている部分を見つける力のことだった。
第十一章
状態の管理
講師は、空気を作る仕事でもある
その日の会議の空気は、重かった。
理由は、誰にもはっきり説明できなかった。
聡は、途中で一度、深く息を吸って、吐いた。
気のせいかもしれない。
少しだけ、空気が変わった気がした。
会議のあと、駒嵐が声をかけた。
川村さん、講座の前って、何をしてますか。
聡は、正直に答えた。
資料を確認している。流れを頭の中で回している。あとは、携帯を見ている。
駒嵐は、頷いた。
そして、一語だけ言った。
「状態です」
聡は、聞き返した。
駒嵐は、説明した。
「講師って、”空気を作る仕事”でもあるんですよ」
そして、続けた。
「人は、言葉だけ聞いてるわけじゃないんですよ」
声のエネルギー。表情。姿勢。間。
それが、部屋の中に伝染する。
内容が同じでも、伝わる量が変わる。
駒嵐は、空海の話をした。
知識より前に、自分を整える。
人は、言葉に影響される前に、存在に影響される。
そして、ある行動心理の研究者の言葉を引いた。
人生の質は、状態で決まる。
聡は、思い出した。
講座が始まる五分前。
携帯の画面を見ていた。
未払いの通知。支払いの期限。誰かからの催促。
それを見た顔で、聡は人前に立っていた。
追われている状態のまま、人に未来の話をしていた。
受講者は、聡の言葉を聞いていた。
同時に、聡の状態を受け取っていた。
その日から、聡は小さな習慣を始めた。
講座の十分前に、深呼吸を三回する。
携帯を閉じて、カバンに入れる。
姿勢を整える。
そして、声に出さずに一行だけ言う。
今日、この場にいる人のために。
変化は、受講者の表情に出た。
話す内容は、ほとんど変えていなかった。
空気が、変わっていた。
影響力とは、テクニックではない。
存在そのものなのだ。
聡はそのとき、自分が音楽でやっていたことの正体に気づいた。
ステージで客席の空気を変えていたのは、歌詞ではなかった。
立っている人間の状態だった。
第十二章
心をつなぐ対話
安心して力を抜ける場所
夕方の事務所だった。
昼間の慌ただしさが引いて、静かな空気に包まれていた。
望月が、聡に声をかけた。
少し話しませんか、と。
事務所の奥の小さな会議室に、二人で入った。
向かい合って座った。
聡は、少し身構えていた。
問題解決の会話なら、得意だった。課題を出して、原因を探して、手を打つ。
気持ちを整理する会話は、苦手だった。
アドバイスか指示が来ると思っていた。
望月は、聞いた。
「川村さん、最近どうですか?」
聡は、答えようとした。
順調です、と言いかけた。
言葉が、出てこなかった。
沈黙が、流れた。
望月は、何も言わなかった。
急かさなかった。待っていた。
十秒ほど経った。
聡は、短く言った。
「正直、しんどいですね」
言ってしまった、と思った。
もう一つ、続けて出た。
「止まったら終わる気がして」
望月は、頷いた。
それから、自分の話をした。
「人を変えることはできないと思っています」
聡は、顔を上げた。
「できるのは、その人が自分で変わろうと思える状態を支えること」
そして、言った。
「安心して力を抜ける場所も必要なんです」
望月は、イソップの話をした。
旅人の上着を脱がせようとした、北風と太陽の話だ。
北風が強く吹くと、旅人は上着を押さえた。
太陽が照らすと、旅人は自分で脱いだ。
強制されると、人は身を守る。
温かさの中では、人は自分から動く。
聡は、黙っていた。
自分がずっと「頑張る側」で走ってきたことに、はじめて名前がついた気がした。
頑張ることは、悪いことではない。
ただ、力を抜ける場所がないと、人は折れる。
折れてから気づくことになる。
聡は、一度折れていた。
部屋を出るとき、聡は言った。
「なんか、楽になりました」
望月は、笑っただけだった。
人は、押された時ではなく、安心して自分で選べた時に動き出す。
聡は、歩きながらそれを繰り返した。
自分が客にしてきたことを、思い返した。
背中を押していた。
押すのが、上手かった。
押された人は、その日は動く。
次の日、戻る。
第十三章
人は変えられない
でも、人は変われる
数日後だった。
聡は、望月にもう一度聞いた。
部下やお客様に向き合うとき、何を前提にしているのか。
望月は、少し考えてから答えた。
「その人の中に答えがあると思っているんです」
聡は、自分のやり方を思い返した。
相談されると、すぐに答えを出した。
早く、正確に、相手が進むべき方向を示した。
それが親切だと思っていた。
実際、感謝もされた。
ただ、相手は次も聞きに来た。
その次も、聞きに来た。
望月は、言った。
「人を変えることはできません。ただ、人は変われます」
一文字しか違わないのに、意味がまるで違った。
望月は、選択理論という考え方に触れた。
人は、外からの刺激で動かされているのではない。
自分の内側にある願望を満たすために、行動している。
だから、こうなる。
「怒られたから変わるんじゃないんです」
「自分が本当に望んでいるものに気づいた時に変わるんです」
望月は、もう一つ言った。
「人は、目的が見えた時に動きます」
聡は、聞いた。
では、信じて待つというのは、放っておくことですか。
望月は、首を振った。
「信じるって、放置することではないですよ」
そして、言った。
奪ってはいけないものが、三つある。
本人が考える力。
選ぶ力。
立ち上がる力。
聡は、その三つをノートに書いた。
書いていて、手が止まった。
自分が崩れたとき、駒嵐がしたことが、まさにそれだった。
駒嵐は、聡の代わりに決めなかった。
必ず再起できますと言った。そして、木の話をした。
そのあとは、聡が自分で考えた。
聡の中で、問いが入れ替わった。
これまでは、こうだった。
——この人を、どう変えるか。
これからは、こうだ。
——この人は、本当は何を望んでいるのか。
問いが変わると、聞き方が変わった。
聞き方が変わると、相手が話す量が変わった。
話す量が変わると、相手が自分で決めるようになった。
聡は、自分が何もしていないような気がして、少し不安になった。
不安になりながら、数字を見た。
受講後に行動した人の割合が、上がっていた。
第十四章
病院へ行く前の市場
ヘルスケア産業の未来
夜の事務所だった。
展示会の会議が終わって、スタッフが帰っていった。
窓の外に、街の灯りがあった。
机の上に、展示会の資料と、市場のレポートと、ヘルスケアの記事と、メモが広がっていた。
残っているのは、聡と駒嵐の二人だった。
聡が資料を片付け始めると、駒嵐が言った。
「今、業界、本当に大きく変わろうとしてるんですよ」
聡は、手を止めた。
駒嵐は、記事を一枚、机の上で滑らせた。
「”治療”から”予防”へ、世界が動いてるんです」
言葉が、並んだ。
未病。セルフケア。ウェルネス。そして、補完や代替の医療。
駒嵐は、まとめた。
「つまり、”病院へ行く前の市場”です」
具体例が、出てきた。
飲料の大手が、医薬品の大手のヘルスケア部門を買った。二千四百億円を超える金額だった。
誰でも名前を知っている解熱鎮痛薬や、風邪薬や、胃薬のブランドが、そこに含まれていた。
聡は、その数字を見ていた。
自分の七千万円が、ずいぶん小さく見えた。
同時に、妙に生々しく感じた。
これは、同じ川の話だ。
駒嵐は、世界の市場の話もした。
補完・代替の医療の市場は、二千億ドル前後の規模になっている。
年率で、十五から二十五パーセント以上。
二〇三〇年代には、数倍になるという予測もある。
漢方。アーユルヴェーダ。ハーブ。瞑想。マインドフルネス。鍼灸。
世界保健機関も、伝統医療と統合医療を正式に戦略として掲げた。
聡は、記事を読みながら、腕に鳥肌が立つのを感じた。
自分がいる場所は、小さな業界の片隅ではなかった。
駒嵐は、そこで一度、声の調子を落とした。
市場が膨らむと、必ず起きることがある。
本物でないものが、増える。
「だから、本当に必要なのは、”本当にいいもの”を見極める力なんです」
聡は、聞いた。
その力は、どこで渡されるのか。
駒嵐は、少し笑った。
「結局、最後に人を支えるのって、”対面”なんですよ」
聡の中で、自分の仕事の座標が動いた。
商品を売る仕事ではなかった。
病院へ行く前の時間に、人と向かい合う仕事だった。
駒嵐は、最後に数字を一つ言った。
「百億です」
聡は、顔を上げた。
駒嵐は、淡々と続けた。
「ただ大きくなりたいわけじゃない」
規模がなければ、業界の構造は変わらない。
構造が変わらなければ、個人がどれだけ誠実でも、同じことが繰り返される。
聡は、駒嵐の顔を見ていた。
この人、本気で業界を変えようとしてるんやな。
はじめて、そう思った。
最終章
終わりなき旅の途中で
ただ、歩くことだけはやめない
聡は、ときどき母の車のことを思い出す。
後部座席で聞いていた音楽のことを。
意味の分からない歌詞を、意味が分からないまま覚えていた。
意味は分からなくても、言葉は心に残る。
残った言葉が、何年かあとに意味を持つことがある。
聡の歩いた道は、まっすぐではなかった。
町を出た。音楽の夢を追った。夢が終わった。営業で売った。売れた。組織を作った。組織が崩れた。七千万円が残った。布団から出られなくなった。
そこから、ようやく本質の話が始まった。
比叡山のふもとで、二人の人に会った。
一人は、根の話をした。
もう一人は、土と身体の話をした。
そして、もう一人。
人を変えることはできない、と言った人がいた。
三人に共通していたのは、一つだった。
誰も、聡を急がせなかった。
いまの聡が持っているものは、たいして多くない。
状態を整えること。
人の話を聞くこと。
人は変えられないが、人は変われると知っていること。
本当にいいものを届けること。
志を持つこと。
そして、近くにいる大切な人を大切にすること。
書き出すと、六行で終わる。
二十年かかって、六行だった。
借金は、まだ残っている。
返し終わる日が、はっきり見えているわけではない。
それでも、朝は布団から出られる。
出られる朝が続いているというだけで、聡には充分だった。
完成した人間なんて、どこにもいない。
人生とは、完成を目指す旅ではなく、成長し続ける旅だ。
人は、成功によって成長するのではない。
迷いによって成長するのかもしれない。
最後に人を支えるのは、人だ。
聡はいま、人前に立っている。
音楽をやっていた頃と、同じ場所に立っている。
歌っているものが、変わっただけだ。
人生は、一本道ではない。
焦らなくていい。比べなくていい。
ただ、歩くことだけはやめないでほしい。
棺に入った財布のことを、聡はいまでも思い出す。
何気なく渡したものが、誰かの人生でずっと大事にされていることがある。
だから、何を渡すかを選びたいのだ。
聡が売るものは、そういうものでなければならない。
エピローグ
灯り
駒嵐迅
十年後のことを、少し書いておきたい。
これはまだ起きていないことだから、予言ではなく願いとして読んでほしい。
十年後の冬。
瀬戸口遥のサロンは、彼女が自分で借りた場所にある。
部屋は、相変わらず小さい。ベッドは二台に増えたが、それ以上は増やしていない。増やせたのに、増やさなかった。
遥はそこで、同じことをしている。
頑張りすぎて、自分を置いてきぼりにした人の話を聞いている。
変わったことが一つある。
遥のサロンで働いていた人が、独立して、自分の店を持つようになった。その人の店にも、同じように誰かが来る。来た人が、また自分を取り戻していく。
波紋は、立てた本人には見えない。
遥は自分の店の中にいるから、自分が起こした波の外側を見ることはない。
私は、その外側を見てきた。
だから書いておく。
あなたの一分の真心は、ちゃんと、遠くまで行った。
宇佐美駿は、滋賀にいる。
相変わらず、裏の表示を見ている。相変わらず、気になった会社に電話をかけている。
変わったのは、口数だ。
少し、増えた。
彼のところには、後から入った若い人が相談に来る。
駿は、答えを言わない。
代わりに、こう聞く。
——それ、裏に何て書いてありました。
若い人は、たいてい見ていない。
駿は、怒らない。一緒に見る。
比べられて育った男は、比べない人を育てる側になった。
これは、簡単なことではない。自分がされなかったことを人にするには、一度自分の中でそれを作らなければならない。
駿は、作った。種子島の畑で、汗の中で作った。
川村聡は、まだ借金を返している。
十年かかっても、まだ終わっていない。
本人は、気にしていない。
彼は毎週、人前に立っている。
話す内容は、十年前とほとんど同じだ。腸のこと。発酵のこと。状態のこと。そして、人は変えられないが人は変われるということ。
変わったのは、話す前の十分だ。
深呼吸を三回して、携帯をカバンに入れて、姿勢を整える。
それだけのことを、彼は十年、一度も省いていない。
才能ではない。
習慣である。
才能は、嵐の日に役に立たないことがある。
習慣は、嵐の日のためにある。
久遠健一は、変わらない。
ホームページは、いまも作っていない。
名刺には、いまも番地だけが書いてある。
発酵の樽は、四年のものが六年になった。
私は一度、聞いたことがある。
もっと知られたほうが、多くの人が助かるのではないですか、と。
久遠さんは、湯呑みを置いて、少し笑った。
「知られることと、届くことは、別やからな」
私のことも、書いておく。
私はいまも、売る仕事をしている。
売る力を持ったまま、売ることを疑い始めた男が、十年経って何をしているかというと、やはり売っている。
ただ、売る前に、一つ確かめるようになった。
これは、大事な人のために作られたものか。
それだけだ。
その問いの前に立ち続けるために、私はこの十年を使った。
答えは、毎回出る。
出ない商品は、扱わない。
それだけで、仕事はずいぶん静かになった。
静かになったぶん、残る人がいた。
三人のことを、私はよく思い出す。
三人は、全員、違う入口から来た。
一人は、身体が壊れて来た。
一人は、人と比べることに疲れて来た。
一人は、全部失って来た。
三人とも、来たときには自分の言葉を持っていなかった。
私が渡したものは、言葉ではない。
問いだ。
水って、どうやったら流れると思いますか。
あなたは、どうしたいんですか。
木って、どうやって倒れるか知ってますか。
問いは、答えより長持ちする。
答えは、状況が変わると使えなくなる。
問いは、何度でも使える。
比叡山の石碑の前に、私はいまも年に一度は立つ。
一隅を照らす。
千二百年前の言葉が、なぜいまだに古びないのか。
私はこう考えている。
この言葉は、何も約束していないからだ。
世界が良くなるとは書いていない。報われるとも書いていない。
自分のいる一隅を照らせ、とだけ書いてある。
照らした先に何があるかは、言っていない。
だから、裏切られない。
百年後の図書館のことを、もう一度考える。
棚のいちばん下に、この本が立っている。
雨宿りに入った誰かが、たまたま手に取る。
その人は、この三人のことを知らない。
リアンという会社のことも、発酵エキスのことも、知らない。
それでいい。
その人がページを閉じたあと、ふと自分の手元を見てくれたら、それでいい。
自分がいま立っている場所に、照らせるものが一つでもあるかどうかを、考えてくれたら。
この本は、成功の記録ではない。
三人とも、まだ途中だ。
遥のサロンは小さい。駿はいまも人の目が気になる。聡の借金は残っている。
途中のまま書いたのは、途中の人に読んでほしかったからだ。
完成した人の話は、励みにならない。
途中の人の話だけが、途中の人を動かす。
最後に一つ。
この三人に共通していたのは、才能ではなかった。
頭の良さでもなかった。
一つだけ、三人が同じだったことがある。
誰かが差し出したものを、ちゃんと受け取ったことだ。
夫が差し出したボトルを。
苦手だと思った人の熱量を。
最後まで残った一人の手を。
受け取るのは、簡単なことではない。
受け取ると、変わらなければならなくなるからだ。
だから多くの人は、受け取らずに通り過ぎる。
いま、この本を閉じようとしているあなたの前にも、たぶん何かが差し出されている。
それが何かは、私には分からない。
ただ、一つだけ言える。
照らすのは、あなたの一隅だ。
誰のものでもない。
奥付
本書について
本書は、サロン・治療院の経営に携わる三人の歩みを、本人の語りと周囲の証言をもとに物語として再構成したものです。人物の造形には脚色があり、固有の企業名・商品名・団体名については、必要のない範囲では記していません。
本書に登場する思想は、次のものに拠っています。比叡山を開いた最澄の「忘己利他」「一隅を照らす」。二宮尊徳の「分度」「推譲」。空海の「在り方」。そして、農と発酵の現場で受け継がれてきた「殺すのではなく、整える」という考え方。
いずれも、私たちが発明したものではありません。
受け取って、次へ渡しているだけです。
一隅を照らす 三人の物語
Rita実践ラボ
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発行:Ritaマーケティング